新訳 桜の樹の下には
「あぁ、もう次で乗り換えか。」と独りごちる。
空虚
桜の木の下には屍体が埋まっていることを認識する。僕が弔われる日はいつか。これは信じていいことなのだろうか。
人は何故桜を美しいと認識するのだろう。これは僕の臆断だけれど、太古の日本の人々は桜の木の下に屍体を埋葬していたのだと思う。犬、猫、老婆、自決した侍、婦女、エトセトラ。きっと沢山の屍体を桜の木の下に埋めた。そして春になると、腐敗した屍体が養分となり花が咲く。死があってこその生。人の夢の様に儚く散る花びら。その潔さに大和人は心奪われていったのだ。
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気づけばもう春で、その桜があちこちに咲いていた。そして気づいたら、緑に変化していた。
三月末、三度目の自殺を試みた。そこに理由なんぞなくて、気づいたら己の首を縛っていた。摂取った薬とアルコールで微睡んだ気持ちだったので痛みはなかった。視界に情報を入れたくなかったので目隠しもした。しだいに、眼を閉じているのにも関わらず、白い世界が見えた。頭に昇る血が脈打つのをしっかり感じることができた。
どれくらい時間がたったのだろう、今度は血の気が引いていくのがわかった。部屋には僕独りだったが、何故か誰かと強く繋がってる気がした。体外離脱とはこういうことをいうのだろうか。
走馬灯の様なものも見ることができた、何故か頭に浮かんだのは、それこそ「桜」だった。実家の裏の川沿いにある桜並木。小、中、高校と通学で殆ど毎日通っていた。四月夜になるとその桜並木に灯籠がともされて、妖美な雰囲気を醸し出す。よく一人で散歩した。運動部に所属していたこともあり、ランニングにも活用した。確か、弁天橋から長岡駅前の橋まで何周もぐるぐると駆け回った。その川を福島江という。屋台なども特に出店することはないので、人も少なく、桜そのものを嗜む人々しかいなかった。四月半ばの生温い夜風が心地よく、僕の汗と混ざり合っていたのを今でも鮮明に覚えている。
自殺は失敗に終わった。
友が助けてくれたのだ。本当に申し訳ないことをしてしまった…自責の念に駆られて、また「死にたい」なんぞちっぽけな感情が生まれてくることがあるが、「説教してやる、ボケカス」と言われ、僕は愛を感じた。謝った。感謝の意も伝えた。僕は性格上、「ありがとう」よりも「ごめんなさい」としか言えないタチなので、これからも一生「ごめんなさい」と感謝し続けるのだろう。
本当にごめんなさい。
未遂の翌日、青山霊園に桜を見に行った。霊園で花見なんぞ、世間からしたら不謹慎、失敬、烏滸の沙汰極まりないと思うが、案外にも人は多かった。どうやら東京の数ある桜の名所らしい。
霊園に映える桜を眺めて、僕はふと思った。
あぁ、桜の樹の下には屍体が埋まってゐる。
何千もある墓の屍体から養分をあつめて、あちこちと綺麗に咲き誇っているじゃあないか。この美しさは幻想だ、きっと夢を見ているに違いない。樹の下にこぢんまりと咲く、花を見つけた。地面と接して今にも踏まれそうだった。だけど何故だろう、この霊園の中で一番華やかに見えた。きっと、屍体の養分をたくさん吸って、輝いているのだろう。まるでランナーを通してまた生える苺の様に無性生殖している。屍体の転生に成功したかの様だった。これが輪廻というものなのだろうか。
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飼い犬が、僕の自殺を試みた日に死んだと知った。悲しくて悲しくてただ泣いていた。あぁ、僕がそんなことしなければ生きてたんじゃないか、
と今でも後悔してる。命の交換だったのだろうか。多分、この傷は永遠に癒えない。また一つ罪ができてしまった。
あぁツライ…それでも惰性で生きてみるか。
春は鬱 無限に眠りたいと願う夢側
少し明かりて 漠然とした感情だけが漂ふ
何を書いているんだ僕は。noteの痛い文章にも飽きた。四月某日