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ウィズコロナ時代は自由を獲得していく。

新型コロナウイルスのオミクロン株の感染拡大は、先のデルタ株の猛威をはるかに凌駕し、重症化はしない云々、いずれにせよ楽観はできないのだと、来たる未知の脅威を想像せずにいられないだけのインパクトを世界中に与え続けている。もはや、ポストコロナ時代、アフターコロナ時代というより、しばらくはウィズコロナ時代を予め想定しておいた方が正解なのかもしれない。何もコロナウイルスがその要因のすべてではないにせよ、やがて本格的に訪れるウィズコロナ時代という名の「新しい時代」に、人は何を志向していくのだろう。

ウィズコロナ時代はおそらく、ただ新しい生活様式をなぞるだけの生活ではなくなっていくだろう。巣ごもり需要は相変わらず続くであろうが、ウィズコロナ時代は、感染リスクを避けた活動ならばより活発化する時代になるのではないか。

この時代を生きる人々は、あたかも失われた時間を取り戻すかのように、想像以上にアクティブになるだろう。そうなれば、必然的に外へ向かっていこうという志向が強くなる。しかし一方で、感染リスクはなくなりはしない。
こうなると、多人数よりは一人ないし少人数で、屋外でも屋内でもなく、文字通り風通しの良い「空間」(単に「場所」でじゃなく)を往来。そして、都市部(中心)から地方(辺境=マージナル)へという動きもさらに加速するだろう。距離で言えば、遠くよりは近くを断続的に行き来するイメージだ。結果的に、文字通り、ようやくボーダーレス化が本格始動するだろう。

あえて、こう書こう。

コロナ禍を得て、個人や文化はより自由を獲得していく。そんな、逆説的な潮流が訪れるのではないかと考えている。

コロナウイルスの登場が、全く新たな文明を作り出し、人類は、もはやかつての重厚長大な日常など求めもしない時代に入っていく―そう、結局人類は、重厚長大な旧き時代を革めるために、さらに重たい装置を背負いこんだのだ。命や健康が危険に晒された後の新たな文明では、物質的な効率化が進むであろうから、人は、手放すものは気前よく手放す。それらは、例えば肩書であるとか、お墓であるとか財産であったりするだろう。要は、身軽になることを求めていくのである。

同時に、結束や紐帯は希薄化していくだろう。意外に思えるかもしれないが、これは、見えない敵との闘いで気づいてしまった「連帯することへの挫折感」や諦め、そして次なる自由を選択するための通過儀礼なのだ。しかしこの絆の希薄化は、かつて安全だと思い込んでいた時代に見られたような、繭に籠ってしまうようなセル化ではない。命の危険を肌身に感じた時代の我々は、とどまって死を待つよりは外に向かっていく個となっていくのである。

ウィズコロナ時代のスローガンはおそらく、

「自由のために外へと向かっていく、一時的/刹那的な旅を重ねる個人が豊かに生きる時代」

といった感じになるのではないだろうか。無数の、決然と個を選んだ「旅人」が、荒野を漂う種子のように、しかし意思を伴って拡散し集合する。私には、ウィズコロナ時代が、萎縮しながら隣人と肩を寄せ合うような時代ではなく、ウイルスの感染力に脅され、あるいは触発された、よりスピーディで、より軽快でダイナミックな、「痙攣的に舞踏する時代」となるような気がしてならないのである。(了)

photo from pixabay by Fabian Steinmetz

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