旅情奪回 第20回:カボチャのいた街角。
ハロウィンが近づいている。夏の終わりにショッピングモールなどに行くと、はやくも恐ろしいお面やカボチャがモチーフのグッズが棚に並び、それまで主役の座を占めていた夏の季節商品は端の方に移動されていたりする。
ハロウィンというイベントが、いつから日本でこれほどのステイタスを持つに至ったか記憶は曖昧だが、シーズンイベントとしては、比較的コマーシャルな行事がない秋に恰好な「儲けのツボ」ができたわけだ。
正直ハロウィンにはあまり思い入れもないし、なにか特別な記憶もない。海外に住んでいた頃は、イースターのほうがメジャーであって、大きなチョコレートでできた卵の中に、小さなお菓子がマトリョーシカ状に詰められたイースターエッグをもらって喜んだ記憶がある。
かくいうハロウィンの起源も収穫祭にあると聞く。確かに、カボチャのお化けが出てくるのだから、収穫祭がルーツでないわけがないのではあるが。
私はよく花屋に行くし、花を買う。特別ロマンチストなわけでなく、気障なわけでもないが、おそらく想像力が貧困な懐古趣味なだけなのだろう。お店で勧められた花を買うこともあれば、送る相手の好みや季節感、配色を考えて自分で花束をお願いするのも楽しい。
ふたたび、ハロウィンに特別な思い入れがあるわけではない。しかし、あのカボチャのオレンジ色がとても好きで、インテリアのワンポイントとしてもかわいらしい。そんな理由でもう10年くらい、この季節になるとなじみの花屋で小さいカボチャを買って帰り、家に飾っている。プラスチックの飾りも悪くないのだろうが、私はあのカボチャの硬い皮や、その下から感じる少ししっとりした感触、掌にぴったり収まるのにしっかりと伝わる適度な重量(そうだ。スティーブ・ジョブスが、手に持ったときの印象にいつまでもこだわった初代iPhoneを手にしたときも、この手の中のカボチャと同じようなしっくりと来るものを感じた)が好きで、あえて本物のカボチャを買ってくるのだ。
そこの花屋ではいつも、カボチャを買うとジャック・オ・ランタンの顔のシールをおまけにくれる。福笑いのようなそのシールで、大人がカボチャに顔を作っている。おかしな画に違いない。その後しばらくして私は引っ越しをした。その花屋は自宅から遠回りになってしまうこともあって、そこで花を買うことはめっきり減って、やがて買うこともなくなってしまった。それでも、この季節になるとだいぶ遠回りをしてカボチャを買いにいく。
「引っ越してしまって、なかなか来られないけど、年一回はここでカボチャを、と思って」
とすまなそうにそう伝えると、奥さんはいつも「そんなふうに覚えていただけて嬉しいです」と言ってくれる。そうやって数年が過ぎて、今年はどうしても都合が悪くてあの花屋にいくことができなかった。こうしてだんだんと足が遠のき、やがては遠い記憶になってしまうのだとわかっている。
今年カボチャを買ったお店では、ジャック・オ・ランタンのシールはついてこない。仕方がないので、帰宅して自分でマーカーで顔を描く。いざ描こうと思うと、凹凸があってなかなか難しいものだ。シールのほうがずっと便利だ。それでもなんとか描き上げた。凹凸がある分、筆跡では立体感がうまく表現できないので、若干シンプルになりすぎた気がしたので、逆に凹凸を利用して少し表情をつけた。シニカルでニヒルな笑みの中に、子供っぽい悪戯心がある、そんな顔つきになった。今年はこの顔を眺めながら、イベントが過ぎ行くのを送ろう。
ハロウィンの思い出ではやはりないのだが、こうしてこの季節になると、たとえもう立ち寄ることがないとしても、こうやって別の店で買ったカボチャに顔を描きながら、あの街角の花屋で毎年買い続けたカボチャのことを思い出すのだろう。(了)