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無法の口笛。−イリーガルにはならないで。

最近では、アウトローという言葉をあまり聞かなくなった。「無法者」「一匹狼」、そして「アウトロー」。どこか、砂塵舞う路上で、酒場から身を乗り出す心配そうな野次馬の視線を集めて悪と戦う、そんなイメージが湧いてきそうだ。この埃っぽくカビ臭い言葉の代わりに、そのポジションはいつしか「アンチヒーロー」が取って代わった。

さて、いまの私にいささかでも正義の心が残っているとするならば、そのルーツは間違いなくジョンストン・マッカレーの『怪傑ゾロ』、なのである。この本を読んだ当時、その背景や設定などほとんど理解していなかったと思うが、普段は軟弱な若旦那風、マスクをつければ弱きを助ける謎の怪傑。見事な剣捌きで悪を討ち、高らかな笑い声を残して去っていく。腕っぷしだけに頼らない「喰えぬ策略家」でもあることから、ついたあだ名はゾロ(キツネ)。

海外でのゾロ人気はいまも高いのだろうか、子供の頃は玩具店にいくと、マーベルヒーローと同じくらいの扱いで、馬に乗った怪傑ゾロのゴム人形が籠いっぱいに溢れていた。ちょっと雑な塗装でも、これまたゴムの悪党と戦わせるには十分に格好良かった。

後年、数多作られてきた映画の数々を観ては、子供心に抱いたあの熱狂を思い出し、その活躍にため息をもらしたものだった。わけても、タイロン・パワーの『怪傑ゾロ』の美しさ、痛快さといったらない。ダグラス・フェアバンクスのゾロはサイレント映画なので、きちんと観た記憶がない。マスクオフ状態もパワーのほうが、私自身の中にあったゾロのイメージに近い気がして好みだ。
アラン・ドロンのゾロは意外なことにコミカル。少々やりすぎの演技も演出も、なにしろコスチュームを着ればアラン様である。とにかくアラン・ドロン版はそういう作品だ。
『デスペラード』で一躍ハリウッドの人気スターとなったアントニオ・バンデラスの『マスク・オブ・ゾロ』では、初代ゾロをアンソニー・ホプキンスが演じていて、公開当時はたいそう驚いた記憶があるが、身軽とは呼べないまでも、優雅で教養に溢れた老ゾロのエレガンスは素晴らしく、私が思い描くゾロがもし「おっさん」になったならこんな感じなのかな、というファンタジーを十分に満たしてくれたと思ったものだ。だから逆に、アントニオ・バンデラスの洗練されない感じがもうひとつピンとこなかったわけだ。

クリント・イーストウッドもタイロン・パワーもアンソニー・ホプキンスもアントニオ・バンデラスも。彼らが演じたキャラクターはアウトローであった。
アウトローという言葉には、法の埒外にあるとはいえ「悪」というニュアンスはなく、既成の法に縛られない「法律によって保護されない者」という意味合いが込められている。法に守ってもらえなくとも、法で裁けぬ悪を裁くという意味では「必殺シリーズ」などまさにその系譜だ。形骸化して既得権益を肥やすだけのシステムに抗う反体制主義もまたこれに相当するのだろう。

昨今、アウトローとイリーガルが混淆しているような気がしてならない。イリーガルな者は、違反者であり違法者である。法律的に許されないことを、「犯さざるを得ない意識的・無意識的な理由」によって侵犯する。違反にロマンは感じられない。

イリーガルが横行すれば、法律が必要になる。法でなければ守られないということは、逆に法がなければ縛れないという危機的な状況にあるということでもある。
しかし同時に、守られるはずの法律に、知らず縛られるということでもある。果たして、この世のすべての法にその存在意義があるだろうか。イリーガルな人や行為のために、現代は、不必要に抱えた法律で溢れかえってやしないだろうか。
悪法もまた法なり、である。法の濫造の時代にこそ、歴史は、人は、恐怖政治を甘受せざるを得なかったのだ。

無法者と違法者は大きく異なる。アウトローにロマンティシズムはあっても、違法者が人を救うことはない。違法に、少なくとも法的正義の旗はのぼらないのである。
そして、法律の多い文明には、必然的に違法者が増える。その違法者のすべてが、「正法」の違反者であると本当にいえるのだろうか…。

自分も、いつか大人になったらかくありたいものだと強く誓って幾歳月。マスクをはずしたドン・ディエゴにはなったかもしれないが、怪傑かといえば自信はまったくない。
さておき、アウトローになりこそはすれ、イリーガルであっては断じてならない。違反は違反であり、同時につまらぬ法律を生む。

銃口の煙を吹き消し、ハットの埃を払って乱れたバッジに手をやって、あるいはマスクをはずして帰途に就くアウトローたちの口笛が、もはや遠い幻聴なのだとは思いたくないものである。(了)

Illustration by BrinMacen,Pixabay

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