燎旦

茶の湯と馬を愛する隠者。 教会主任牧師は辞任しました。「枕するところ」のない旅に出ます(笑)

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茶の湯と馬を愛する隠者。 教会主任牧師は辞任しました。「枕するところ」のない旅に出ます(笑)

最近の記事

知性はまたイカロスの翼にもなり得る。 とはいえ、翼の膠が溶け落ちそうになれば一度不時着すればいいのさ。

    • コロサイ書1:15-20説教「a priori」

      15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられた

      • わたしにとって説教とは

         わたしには精神障害という疾患がある。20代の前半に発症して以来およそ四半世紀の間、この病気に苦しめられてきた。宿河原に赴任した当時、わたしは深刻な鬱状態にあった。始めのうちは礼拝での説教もこなしていたが(もちろんそれが十分なレベルに達していたとは言わない)、次第に説教を語れなくなった。言葉が出てこなくなったのである。失語症にでもなったかのように全くしゃべれないときもあった。説教の途中で沈黙して後が続かなくなったこともしばしばであった。  しかしわたしは、休職して回復を待った

        • 少年愈老いたると雖も遂に学を成す。 一寸の光陰は永遠の命也。 既に死は無く日々是好日。

        • 知性はまたイカロスの翼にもなり得る。 とはいえ、翼の膠が溶け落ちそうになれば一度不時着すればいいのさ。

        • コロサイ書1:15-20説教「a priori」

        • わたしにとって説教とは

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          芥川、漱石を愛するわたしにとって「偉そう」だとか「上から目線」だとかは褒め言葉でしかないな。高く踏むとはそういうことだから…

          芥川、漱石を愛するわたしにとって「偉そう」だとか「上から目線」だとかは褒め言葉でしかないな。高く踏むとはそういうことだから…

          わたしにとって「信仰を生きる」とは、巡礼の旅であり冒険であって職業ではないのだよ。

          わたしにとって「信仰を生きる」とは、巡礼の旅であり冒険であって職業ではないのだよ。

          ‭サムエル記上 16:7 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 人間もまた光であるなら神はその波の性質を観測する。唯物論的に世界を観測しても常に神は存在しないという結論を得るばかりである。

          ‭サムエル記上 16:7 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 人間もまた光であるなら神はその波の性質を観測する。唯物論的に世界を観測しても常に神は存在しないという結論を得るばかりである。

          量子力学的神学なんていうと誤解されるのかもしれないが、理系的な観点からはナンセンスだと思われている聖書の記述も、「量子力学」的に解釈すれば筋が通るのだということを証明できればそれでよい。 だから、数学的に神の存在の分布を考えたり、聖霊のエネルギーを数式にするのが目的ではない。

          量子力学的神学なんていうと誤解されるのかもしれないが、理系的な観点からはナンセンスだと思われている聖書の記述も、「量子力学」的に解釈すれば筋が通るのだということを証明できればそれでよい。 だから、数学的に神の存在の分布を考えたり、聖霊のエネルギーを数式にするのが目的ではない。

          量子力学的神学メモ   肉ー霊  粒子ー波 信仰とは神との量子もつれではないか?etc.

          量子力学的神学メモ   肉ー霊  粒子ー波 信仰とは神との量子もつれではないか?etc.

          僕が僕であるために

          「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」なんて随分面倒な生き方だなと以前は思っていた。 ただ尾崎の真っ直ぐな言葉とシャウトを聞くと、胸が熱くなるような、目から熱い水が零れてしまうような、そんな気持ちになったのも事実だ。 「人を傷つける事に目を伏せるけど優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく」なんて聞くと昨今のキャンセルカルチャーが頭に過る。人に傷つけられることは許せないと言い募り、ルサンチマンを解消しようと強者に立ち向かうのも、人としてある意味では仕方ないのかもしれないけ

          僕が僕であるために

          二宮教会 主日礼拝説教メモ ロマ書12:9-12「泣く人とともに」

          12:09愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 12:10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 12:11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12:12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。12:13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 12:14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 12:15喜ぶ人と

          二宮教会 主日礼拝説教メモ ロマ書12:9-12「泣く人とともに」

          聖霊降臨節第6主日使徒言行録11:4-18「神が清めたもの」説教メモ

          11:04そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 11:05「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 11:06その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 11:07そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 11:08わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物

          聖霊降臨節第6主日使徒言行録11:4-18「神が清めたもの」説教メモ

          聖霊降臨節第4主日ルカ福音書8:43-48「信仰によりて救われる」説教メモ

          8:43ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。08:44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。08:45イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。08:46しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。0

          聖霊降臨節第4主日ルカ福音書8:43-48「信仰によりて救われる」説教メモ

          忘却と呪縛 ~教会報巻頭言として

           江戸幕府の終焉と明治維新、太平洋戦争の敗戦から現代まで連綿と日本人に引き継がれる、その精神性の正体とはなんだろうか。  日本人は批判的思考が苦手であるように見える。「○○を批判するな」「~さんに批判されて悲しい」なんていう言説からも、批判と否定を区別できていないことがよくわかる。  そもそも批判とは何であろう。  すなわち批判とは、自らの好悪に捉われず論理的思考に基づいて事柄の評価を判断するということになろう。一般的な例として挙げた意味は上述された中での3番にあたるだろ

          忘却と呪縛 ~教会報巻頭言として

          ある委員会への餞別

          委員のみなさま まず5・15デモに賛同の意思とコメントを寄せることが何らの負担にならないであろうことは知っています。だから反対するわけではないと言いました。 しかし「賛同とまでは言えない」のは、この委員会の目的は何であり、わたしたちの本旨は何であるかということを委員会を離れるにあたって問いたかったというに過ぎません。 わたしはこの何か月間かずっと「キレ」続けています。だから社会福祉委員を辞め、すべての委員会活動から身を引くところなのですが、それはどの委員会に参加しても同

          ある委員会への餞別

          『聖なる公同の教会』とは

           聖なる公同の教会とはいかなるものか。この言葉の中には3つの要素が含まれている。即ち、「聖なる」とは、「公同」とは、「教会」とは何かという3つの問いである。しかしながら、われわれは「聖なる」存在一般について、また「公同」の存在一般についてここで追求しようと考えるものではない。「聖なる教会」について「公同の教会」についてを追求するのである。従って、「聖なる教会」「公同の教会」という2つの要素に解答すれば良いようにも思われるが、「教会」とは何であって、何でないかという問いにも当然

          『聖なる公同の教会』とは