「和賀英良」獄中からの手紙(43) ギャラリーでの出会い
―佐知子の個展―
銀座の「ギャラリー古藤」はすずらん通りの中ほどにあった。
外に面したガラス窓には車に貼るようなやや暗いフィルムが張ってあり、外からは中の様子があまり見えない。
ギャラリーらしくないブロンズ色のアルミドアをあけると、そこは十坪ほどの空間があり、中央にいくつかあるデコラ張りの小テーブルの上に、作品がさりげなく並べてあった。
田所佐知子は東京藝大彫刻科を卒業後は、等々力の実家で小品などを作って懇意の方々に見てもらっていたが、その人たちに勧められて銀座のギャラリーでの個展を催すことになったのだった。
事件後はしばらくマスコミを遮断して、作品の制作に時間をかけていた佐知子だったが、それは彫刻に打ち込むことで和賀の幻影から逃れようとする気持ちもあった。
作品で特に評判が良かったのは高村光太郎の作品で有名な「セミ」をモチーフにした木彫で、それらの影響を受けた保守的な作風が逆に新鮮だった。
その日のギャラリーはあまり人が見られず、2、3人がそれとなく作品を眺めている様子であった。
吉村は少し緊張しながらギャラリーの中に入った。
こういった場所には足を踏み入れたことがなく勝手もわからなかった。佐知子は見当たらなかったので、店内をぶらぶらとしながら。それほど多くない木彫りの作品を眺めていた。
彫刻と言っても手に取れるような小さなものが多く、大きめのブローチと言っても良いくらいの可愛らしいものであった。
不意にバックヤードから佐知子が現れた。
急にモノクロームの彫刻作品がカラーに変化したような華やかさが目の前に広がった。花柄のワンピースに白いパンプスを履いた佐知子は、ショートカットの髪とともに凛とした姿勢で吉村の前に立った。
吉村はすぐに意を決して佐知子に話しかけた。
「こんにちは、田所佐知子さんですね、本日は個展のほう盛況にて誠におめでとうございます」
「あら盛況なんて、お恥ずかしことですわ、周りをよくご覧になって」
佐和子は少し照れながら言った。
「お越しいただいてありがとうございます」
佐知子は育ちが良い人が持つ素直さで、相手が何者かも確認せずに深く頭を下げた。
吉村はテーブルの上の台座に置かれている20センチほどの、磨きこまれて黒光りした木彫の蝉を指さしながら、佐知子に話しかけた。
「このセミは高村光太郎作品のオマージュですね、智恵子さんがとても気に入って着物の懐にずっと入れて温めていたというものですね」
佐知子は急に明るい顔になり、目を輝かせて言った。
「まあよくご存じですね、こういった地味な作品はあまり興味がない方が多いんです。私、実ははセミが大好きなんですのよ」
吉村はそれを聞いてすぐ返答をした。自分の声が大きいことに気が付かず、ギャラリーの奥にいた人がこちらを振り向いたこともわからなかった。
「あ、僕もセミが子供のころから大好きなんですよ!千葉で育ったものですから、その昔はクマゼミを取るのが夢だったのですが、関東は少ないのでほとんど見つからない……」
それを聞いた佐和子は、少しはしゃいだように言った。
「私もおなじです!クマゼミのために南のほうにわざわざ旅行もしておりました。立派なクマゼミってセミの王様って呼ばれているんですよ、ご存じですか?」
自分の好きな話題になると佐知子は急に口数が多くなった。リズミカルに早口でしゃべりながら吉村との間隔が一歩近づいた。
吉村は佐知子の華やかな雰囲気と柑橘系のコロンの香りに気持ちが動いた。
クマゼミの話をしばらくしていると、吉村はようやく自分の目的を思い出した。
「あの、実は私は……蒲田署の巡査をしています吉村と言います」
佐知子の顔色が急に険しくなった。
「例の事件ことでまだ聞きたいことでもあるのでしょうか」
「私は事情聴収でしたら正式にうけております」
吉村は少し戸惑いながら来た理由を述べた。
「いや、その件はそれで収まってはいるのですが、実はお父さまの田所先生から少しお話を伺えないかと思っていまして、ギャラリーに来ればお会いできるかと思ってやってきました」
他の客は一通りの鑑賞が終わったようで、佐知子に軽く会釈をしてギャラリーを後にした。
「父ですか……今日の出がけに近くまで来たら寄る、と申しておりましたが、いつ来るかわかりませんし、永田町で仕事があれば寄らないと思いますが」
佐知子は少しぶっきらぼうに説明した。
「よろしければ、珈琲でもお出ししますので少しお待ちになっては」
と言って奥に入ろうとした最中に、入り口あたりがざわついた。
「おう、佐知子、寄ってみたよ」
入り口のドアを押しながら右手を高く上げた田所重喜であった。「引く」と書いてあるドアなのに無理やり押して入ってくるところは、政治家らしい強引さがにじみ出ていた。
笑顔の後ろには胡蝶蘭の鉢植えを持った秘書が、腰をかがめて申し訳なさそうに立っていた。
吉村はすぐに意を決して田所に話しかけようと動いたが、それを制して佐知子が田所に話しかけた。
「お父さま、こちら蒲田署の巡査という方が先ほどからお待ちです」
田所は怪訝そうな顔で吉村を見た。
「蒲田署の吉村と申します、先生に和賀英良のことで伺いたいことがありまして、こちらまで参りました。本日少しお時間はいただけないでしょうか」
田所は後ろにいる秘書に少し外で待つように申し付けてから、吉村に言った。
「そうか、今日は佐知子の日だから無理だが、後で時間を作ろう。あとで外にいる秘書に電話番号を聞いてくれ、私のデスクに直接つながるから」
そう言って、入り口のほうを指さした。
田所は向き直りながら、吉村の顔をなぜかじっと見つめた。
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ほんのニ、三秒くらいだったのか、一瞥しただけだったのかわからない。妙に間の抜けた空白の時間だった。
その目の輝きと純粋なまなざしを確認した田所は、急に閃いたように確信をもって吉村に話しかけた。
「ところでキミ、突然だが、政治に興味はないかね」
吉村はその唐突な問いかけをぼんやりと聞きながら、見開いた目は胡蝶蘭を持って微笑んでいる佐知子をしっかりと追っていた。
第44話:https://note.com/ryohei_imanishi/n/n6c4ed630f40f
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