№3 これまでの順子さん ~予診~
僕の妻の順子さんは、「多系統萎縮症(MSA)」という原因不明の難病に罹患しています。
2005年に放送された「1リットルの涙」というテレビドラマをご存じでしょうか。沢尻エリカ主演の人気ドラマで最終回には視聴率が20%を超えたそうです。このドラマは、同名の手記『1リットルの涙(木藤亜也)』を原作にしています。この著書は副題に『難病と戦い続ける亜也の日記』とあるように、「脊椎小脳変性症(SCD)」という回復不能な難病に罹患した木藤亜也さんの日記です。高校入試の15歳から、言葉と、文字を書く力を失う20歳まで、病魔と戦いながらも高校に通い、笑い、そして涙した日々の記録です。ドラマでは脚色が加わり、別の物語になっていますが、それでも主題歌「Only Human(k)」にのって流れるエンドロールに木藤亜也さんの実写真が映ると、その著作とドラマが重なって、年甲斐もなく大粒の涙があふれたことを思い出します。
順子さんの病気である「多系統萎縮症(MSA)」は、亜也さんの病気、「脊椎小脳変性症(SCD)」と同じ脊椎小脳失調の病気です。異なる疾患として難病指定されていますが、病状の特徴はよく似ています。「めまい」「ふらつき」からはじまり、つまずいたり、転んだり、距離感を誤ったり、徐々に歩行困難になってゆく順子さんの姿は、沢尻エリカさん演じる亜也と重なります。ドラマを見ていると、容姿も年齢もおおきく異なる順子さんと亜也ですが、その姿がオーバーラップし、こころがザワつき、正視することができない場面も多くありました。
ドラマの中で、亜也の歩く姿に、「おねいちゃん、ペンギンさん、みたい。」と幼い妹がいう。「(精一杯の微笑みをつくり)かわいいでしょ。」と答える亜也。
僕も順子さんの歩幅を狭くした雪道を慎重に行くような歩き方を、「ペンギン歩き」と呼んでいました。順子さんは、いつも苦笑いを返すのが常でした。今はもう、順子さんは歩くことができません。
この著作、そしてドラマに出会ったのは、順子さんが確定診断を受けた2020年1月のことでした。「脊椎小脳変性症(SCD)」、「多系統萎縮症(MSA)」というキーワードで、ネットで著作や映像や論文を探し回っては、読みまくっていた頃でした。
順子さん、病院を渡り歩く
2019年11月の中頃からでしょうか、「めまい」、「ふらつき」、立ち止まれない、下り坂がにがて、という状態から、歩行困難がはじまりました。まっすぐに前に進むという、普通の人にはあたりまえの動作が、横に傾き、倒れそうになります。ただ歩くという動作なのですが、2足歩行のロボットがたくさんのセンサーと駆動装置と複雑な計算で成り立っているように、僕たちがおもっている以上に歩くというのは大変な作業なのです。前に一歩を出すとき、体は横にぶれないように、平衡を保つようにバランスを取ります。身体のバランスとは、だれにも備わった、なにも考えることもなく生まれる機能ではなくて、頭の先から足の裏までのたくさんの神経や筋肉といった身体を構成するすべてが、聴き洩らさないように慎重に耳をすまして感じ取った信号を、命の根源的な場所とひそかに会話しながらつくる神秘のことがらなのです。
順子さんはバランスをとることがにがてになってきました。
何か原因があるはずです。耳鼻咽喉科へ幾度も通いましたが、異常は見つからず。「めまい外来」という診療科があると聞き、行ってみようと調べましたが、予約制でしかも満員、診察まで数か月かかるといいます。そんな中で思いだしたのが、患者の病名を謎解きをする「総合診療医」の存在です。以前、テレビ番組で、研修医がカンファレンスをして病名を当てるというクイズのような番組がありました。早速調べると、近隣の総合病院に「総合内科」という診療科がありました。
特定の疾患ではなくとも総合的に診察してくれるという「総合内科」にいってみようと考えました。それでも、素人の思い違いに過ぎないかもしれない、歩行障害が腰や骨のゆがみとか、外科的な要因も考えられます。どちらにしても、総合病院の「総合内科」を受診するためには町医者の紹介が必要です。2019年11月27日、整形外科をたずねました。整形外科ではレントゲン撮影と簡単な反射機能検査をしましたが、外科的な問題はなく、結局、調べていた近隣の総合病院の「総合内科」を紹介していただくことになりました。
2019年12月2日、総合病院の総合内科を受診しました。
「めまい」、「ふらつき」、若干の「歩行困難」など、今までの順子さんの症状を医師に伝えました。若い男性医師でした。医師は長い問診の後、歩行や片足立ちの様子、足の反射などを確認しました。いつもの「ふらつき」が見られます。次に医師は、順子さんの人差し指を自分の鼻先にあてるように指示します。そして鼻にあてた指先を、「ここにタッチしてください」と、医師は指先を左右にゆっくりと動かし、「私の指先に触れたら、またご自分の鼻に指を戻してください」。医師のしぐさをまねて、順子さんの指先は、自分の鼻、上下左右に移動する医師の指先、そしてまた自分の鼻と動きます。ときおり、医師の指先を追って動く順子さんの指先が、空間を彷徨います。鼻指鼻試験というそうです。順子さんは、試験のさなか奇妙な照れ笑いをみせていました。若い医師に照れているようにも見えましたが、実は宙を舞い行き先迷子な指先に、「なぜこんなことができないの」と不思議でしようがなかったのでしょう。
そして、頭部CT検査を受けることになりました。
壁に沿って並ぶたくさんの長椅子は、病院の広い通路を塞ぐようにつづき、患者の一群は名前を呼ばれることだけを、うつむき気味に待ち続けている。順子さんと僕は、その影にまぎれ、喧噪の消えた一角で、不安を押し殺すように、黙って座っていました。
呼ばれて診察室に入ると、頭部のCT映像が医師のパソコンモニターに映し出されていました。順子さんの脳内が輪切りになって表示されています。医師は映像を動かしながら、ここが大脳、そしてここが小脳、脳幹だと、説明をしました。
小脳だという部位には、周りにしわのような波があって、僕には、テレビコマーシャルでみる干し梅の『男梅』が浮かんだ。とは言っても強面(こわおもて)な赤ら顔ではなくて、大方がねずみ色で、周辺が仄白く折り重なるように見える。医師は、小脳の萎縮があるように見受けられると説明しました。そういわれても、脳の映像を見るのは今回が初めてで、正常な小脳とはどんなもので、正常と異常ではどこがどう違うのか、順子さんも僕もわかりません。
まず、小脳ってなによ。
医師は、小脳は脳の奥に位置していて、運動能力や平衡感覚、自律神経などをつかさどっていること、小脳に異常があると順子さんのような運動機能に不具合がおきることを教えてくれました。そして、診断・治療をおこなうには脳神経内科の受診が必要だと、すすめられました。
この総合病院には、脳神経内科医が常駐しておらず、別の総合病院の脳神経内科を紹介してもらうことになりました。
小脳が萎縮している。順子さんと僕にとって衝撃的な診断でした。それでも、小脳の役割は、順子さんの症状に影響をあたえている原因であると、医学的知識の乏しい僕にも想像できます。今まで原因不明で、なんでこんな症状がでたのか、どうすれば治るのかと、おもってきたことが少しはわかって、ちょっと光がさしたと、このときは思ったのでした。まさか、回復不能な難病であるとは知りませんでした。「ママの小脳は、ねずみ色の『男梅』みたいだったよ」と、僕は無毒だと本人しか思っていない笑えないジョークを飛ばし、順子さんはいつものように笑いながら「ひどい」と突っ込んでくれる。まだ、どこかお気楽な二人でした。
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