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【小説】五月のそよ風の中へ旅立つ

労咳末期も心穏やかに

 昭和15年冬、旅先での無理が祟り、ついに江古田の療養所へ入ったあの人。

 私は泊まり込みで看病を続けているも、病状は思わしくない。
 しかし今はあの人の心持ちひとつ穏やかでいられたらと私は思い、今日も早朝からあの人の友人にお願いして届けてもらった花や果物や書物、そして描きかけの設計図を手に、病室へ戻る。

 もうあの人との遠い将来を夢見ることは終りにしたが、その代わり"一生に添い遂げる"私はそう心に決めた。
 そしてまた、自らの中のあの人への気持ちが揺るがぬものであることを確信する。

 そろそろあの人も目覚めた頃であろう。

 あの人の病室は、広い敷地を持つこの療養所の中でも、一番か二番目には日当たりが良い。
 私が、病室のドアを軽くこぶしで叩くと、はい、巴(トモエ)さんですね、と声がする。

「おはようございます、お目覚めですね。お加減はいかがですか、倫哉(ノリヤ)さん」

 私は、カーテンを開けながら声をかける。

「巴さん、おはようございます。ええ、すこぶる快いです。今朝は朝食も頂きたいような気分です」

 お医者様によると病状は日々悪化の一途を辿ってはいるとはいえ、こうして倫哉さんの心持ちは穏やかであることも少なくない。
 食欲もある…とは言ったが、通常の食事は既にこの人の体が受け付けなくなっていた。

 しかし、果物…りんご等なら、嚥下にさえ気をつければ問題ないので、今回も私は、彼の友人である高町さんにりんごを所望した。
 しかし高町さんはありがたい事に、りんご、みかん、洋梨、それに高価なバナナまで届けて下すった。
 恐らく以前もそうだったが、他の友人の方々もお金を出し合ってこの人の鋭気のために祈って下すってのことだろう。
 後ほど倫哉さんにはお伝えしなければ。きっと大層喜んで高町さんにお礼状を書くに違いない。

 そういった、この人の喜びひとつひとつ…大きくても小さくても、晴れた心を大事にしよう…私は倫哉さんが療養所に入った際、心に決めた。

吟遊詩人のごとく、ゆめみたものは…

 倫哉さんが肺の病気を患ってからは随分経つが、いよいよこの療養所に入るとなった時には、悲しい事に既に運命はほぼ決まったようなものだったという。

 私はその際急いで駆けつけたが、倫哉さんは最後に会った時よりも一回りも二回りも痩せ、青白かった顔色はまるで透けてしまいそうなほど血の気がなく、時折出る高熱だけがこの人の頬を上気させるのだ…と聞いたとき、私は涙よりも先に「一生を添い遂げる」覚悟が胸に宿ったのは、きっと倫哉さんを愛するがゆえだったと、我ながら思う。

 私は、看護婦(現代の看護師)の資格は持っていないので、処置や何かは専門の看護婦さんにお任せしたが、とにかく倫哉さんが最期までできる限り心地よく居られるように、と身の回りの世話をする旨、申し出た。

 倫哉さんはまだ23歳、お母様もおひとりの上にまだまだ働き盛り、実の息子といえどなかなか実際に看病をしてやることもできないことを悔いており、私の申し出は余程嬉しかったと見え、固く両手を握って下さり、あなたも体にはお気をつけて無理のないように、とどこか悲しくも安堵したような笑顔で仰った。

 その時、既に叶わない夢とはわかっていても、一瞬、倫哉さんと所帯を持っているような錯覚に陥り、私はしみじみと嬉しかったことを誰にも内緒にしている。

 倫哉さんはのお仕事は設計士。しかし、学生時代から習作に励んでいた詩の方も高い評価を受けており、そちらの業界での活躍もかなり華々しいものであった。

 今朝、果物や何かを届けて下すった高町さんも、そちら、詩人の会のような方面でのお友達だという。

 生来あまり体が丈夫でなく、大学在学中からお加減があまり良くなかったのにも関わらず、旅好きな倫哉さんは療養休暇も兼ねて、あちこちを旅して回っていた。
 そして方々から葉書を送ってくれた。
 ある時は京都から、またある時は琵琶湖畔から…最も多かったのは信濃追分にて、と記載のあるものだったが、実際に信濃のどの辺なのかはよくわからないままだった。

 一度尋ねたことがあるが「静かで空気の美味しい、良いところですよ」とのことで、何となくそれ以上のことはあまり言いたくなさそうな気がしたので、私もいつか行ってみたいですわ、とだけ返しておいた。
 それでも倫哉さんはこの頃も満足そうに「信濃追分にて」との覚え書きとも作品ともつかぬ文章を綴っているのを見て、この幸せ、このひとときの幸せだけが今、この人を健康そうにさせている…と思い、そういう時だけ、カーテンの陰に隠れて私は涙を拭うのだった。

「巴さん、少し宜しいですか?」

 不意に倫哉さんに声をかけられた私は、泣いているのに気づかれたかと瞬間ビクッとしたが、振り返ると倫哉さんは色の悪い手にりんごを持ってこちらへ差し出していた。

「りんごを剥いてくださいませんか?」
「え、ええ、すぐに剥きますわ。ごめんなさい、ぼんやりしてしまっていて」
「良いのです、私は、巴さんのそういうのんびりとした優しげな雰囲気が大層好きなのですよ」
「まあ、ありがとうございます」

 私は、今更ながらに照れながら倫哉さんからりんごを受け取ると、病室の隅の洗面台で洗い、食器棚から果物ナイフを出してきて、剥き始める。

「高町くんが持ってきてくれるりんごは、いつも真ん中に蜜がギュッと詰まっていて、それはそれは美味しいのですよ、いつものように巴さんも召し上がって下さい。巴さんと頂くりんごは、ビフテキやシチュウよりも何倍も幸せな味がする」

 危うく指を傷つけそうになるほど、りんごの蜜とどちらがかしら…と思うくらいの甘い倫哉さんのお言葉に体を熱らせつつ、皿にのせた林檎をフォークに刺して、倫哉さんに手渡す。
 倫哉さんは、幸せそうにそれを頬張り、私にも食べるようにと促す。

「ありがとうございます。それじゃあ、今日もおひとつだけ頂きますね。そうそう、高町さん、他のお友達の方からかもわかりませんが、みかんや洋梨、バナナまで持ってきて下すったのよ、お優しい方々だわ。皆さん、倫哉さんの新しい作品を心待ちにしているかもしれないですわね」

「バナナですか…そんな高価なものを寄越すとは、いよいよ私が長くないのを知っている彼らなりの、揶揄い半分、優しさ半分といったところの計らいでしょう。ありがたくもあり、可笑しさまで届けてくれる、仲間とは本当に素晴らしいものです」

 倫哉さんは、りんごを半分くらい食べると、あとは私に下さるとのことなので、遠慮なく頂いた。
 なるほど…じっくり味わうと、中心部に詰まった蜜がじゅわっと口の中いっばいに広がる…倫哉さんがこれを作品のモチーフとするならば、どんな言葉で以って紡ぐのだろう…。

 そう思って倫哉さんを見ると、いつもベッド横の引き出しに入れてある便箋と万年筆を出してきて、何か書いている。
 きっと高町さんやお友達へのお礼状と、新しい作品だろう。

 高町さんや他のお友達から何かを頂くと、倫哉さんはお礼代わりに詩作品を何編か書き送るようだった。
 そのうちのいくつかは、実際に機関誌に載せて頂いたりもしたのだと、本当はまだまだ生きられるのでは…と思うくらい快活な声で、いつか倫哉さんは話してくれた。

別離か統合かへのプレリュード

 不意に何かがぶつかり合うような音と、倫哉さんの激しい咳が聞こえた。
 見ると、倫哉さんは小さな金だらい一杯の血を吐き、胸をぜいぜいさせている。

「巴さん…看護婦さんを…」
「はい、しっかりなさってくださいね」

 私は病室を飛び出すと、行き交う看護婦さんたちのうち、一番最初に会った看護婦さんに倫哉さんの現状を伝える。
 すると、他の看護婦さんたちも数人集まってきて、3人はすぐに伺います、と病室へ向かい、残り2人は、医師(せんせい)をお呼びしましょうと言って、私もそちらについていった。

 医者は、神妙な面持ちで、しかし穏やかに私に話し始めた。

「お嬢さん、お辛いでしょうが、倉川さんはいつどうなってもおかしくない状況です。あなたのような献身的な方が付き添ってくださるおかげで、気持ちの方は他の同程度の進行度の患者さんと比べてとても良い。しかし細菌は確実に彼の体を蝕み続けています。このままではお嬢さんも感染してしまうか、そうでなくとも疲れてしまうでしょう。どうでしょうか…この辺で少し休まれても。ご心配なのは承知の上ですが」

 それは、私に倫哉さんの看病から一時、或いは今後一切手を引け、という意味であった。
 私はもちろん固辞したが、どうやらそれは、倫哉さんのお母さまのご意向らしかった。

 倫哉さんのお母さまは、お忙しい合間を縫って、頻繁にお医者様に電話をかけてきたという。
 そして、お医者様が倫哉さんの病状について伝えると、泣いているような様子の時と、気丈な時と、また、私を心配するようなことばを漏らすことも一度や二度ではなかったという。

 息子が元気であれば、生涯他に現れることのないような良いお嬢さんだから、もちろんお嫁に頂くには申し分ないし、世間では家族でさえも感染を恐れて見舞いにも行かないという患者が多い中、息子に尽くしてくれてありがたいし、二人きりの時間を静かに見守りたいが、実際は息子はうら若きお嬢さんをひとり残して去る運命にあるのだから、お嬢さんの気持ちを思うとやりきれない、また、今回のことで彼女の人生を狂わせてしまっても申し訳ない…。

 倫哉さんのお母さまは、そう何度もお医者様に話したのだそうだ。
 私は、倫哉さんのお側を離れたくはなかったし、たとえ倫哉さんが目の前で天に召されたとしても、その瞬間まで心穏やかで居られるよう、私は添い遂げる、そう決めたのだ。
 しかし、倫哉さんのお母さまのお気持ちも無碍にする訳にはいかない。
 いくら覚悟を決めて、来るべき時を待ったとて、実際にその瞬間が来たら冷静で居られる自信は正直私には持てなかった。
 それを考えると、お母さまのおっしゃることも一理ある…そう思った。

 私がお医者様にそう話すと、お医者様は、受話器を持ち上げて、ダイヤルを回す。
 倫哉さんのお母さまがお手伝いをしているお宅へ繋いでもらっているらしく、電話がお母さまに繋がると、お医者様は、今の私の話を正確にお母さまにお伝え下さった。

「お嬢さん、今日の夕刻ごろ、倉川さんのお母さまが来られるそうです。お嬢さんに、大層感謝されていましたよ」

 倫哉さんの病室が清掃が済み、看護婦が処置をして、医者の診察があった後で本人が落ちついて眠りに就いた頃、倫哉さんのお母さまがいらっしゃった。

 面談室に入って来るなり、私に涙を流しながら詫びたが、私は、大丈夫です、お母さまのお気持ちもわかりますから、と背中をさすりながら宥めた。
 本当にお母さまもお辛そうであった。私のことも想ってのことだが、ともすると一生消えない傷痕となって残るのでは、と心配でならない、と自分からは切り出せなかった、とのことであった。
 それほどまでに私のことを考えてくれてのことなのである。
 とりあえず私は出来る限り笑顔で、お母さまに今後、倫哉さんの身の周りのお世話はどうするのかと尋ねると、少しお代を出せば付き添いの看護婦をつけることができるので、そちらをお願いしようかと思う、もちろんあなたが時々顔を出してくだされば、倫哉は喜ぶと思う。
 しかし、もう、あなたはあなたの人生を生きて、辛い時期は長引けば長引くほど、遺されたあと悲しみもまた長引くから…そう言って着物の袖でお母さまは涙を拭った。

 そういえばお母さまも、倫哉さんが小学校に上がる前に倫哉さんのお父様…ご主人を亡くされている。
 裕福な家庭ではあったので、しばらく不自由はしなかったと聞くが、やはり女手ひとつで2人の息子(倫哉さんにはお兄様がいる)を育てるのは大変だったようだ。
 そして、夫を亡くした悲しみを、この人はきっとずっと心に抱えたままで、今度は息子の命の灯が消えんとするのを待つだけの運命に立たされている…。

 私は、お母さまのお気持ちを無駄にしないため、付き添い役を看護婦に譲る旨、伝えた。

 …倫哉さんには、直接言えなかった。その時の大喀血の後、看護婦や医師以外は本人と会うことも話すこともできない…いわゆる面会謝絶状態になってしまったのだった。

冬は足早に去るも

 結局私は、倫哉さんに直接はひとことも告げることなく、天と地に引き裂かれてしまうことになる。

 幾度かした手紙でのやり取りの中で、私はやはり倫哉さんが生きているうちに、一度で良いから会いたい…あの柔らかな手を握りたい、という気持ちが溢れて仕方なかった。

 しばらくは、無期限休暇を申し出ていた勤めへの復帰で慌ただしく、倫哉さんの状況を気にもかけてあげられなかったが、私は高町さんが会社へ送ってくれた(私と倫哉さんは職場を共にしていたのだ)機関誌で、倫哉さんのとある高名な賞の受賞決定を知り、ひとり目を閉じて倫哉さんの嬉しそうな様子を思いうかべ、機関誌を胸に抱き締めた。

 その日、私は勤めが終わると、お花屋さんでまだ花の咲いていないヒヤシンスを買い求め、会えないことは承知の上で、倫哉さんのいる江古田の療養所へ向かった。

 受付で、南病棟◯◯号室の倉川倫哉へ届けものです、と告げると、受付の女性は、少しお待ちください、と言って席を立った。

 もしかすると、面会謝絶ではなくなったのだろうか、と淡い期待を胸に、言われた通り待っていると、化粧気のない疲れた表情をした30くらいの女性が私の元へやってきて、頭を下げた。

「倉川倫哉さんの付き添い看護婦をさせて頂いております、国岡夏代と申します。風間巴さんでいらっしゃいますね」

 その、落ち着き払った感情のない話し方に一瞬気圧されてしまったが、私はすぐに挨拶を返した。

「風間です。いつも倉川がお世話になっておりまして、ありがとうございます。あの、今日はこれを倉川の病室に置いていただきたく、伺いました」

 すると夏代と名乗った看護婦は驚いたようにまだ花を咲かせていないヒヤシンスと私の顔を交互に見ながら言った。

「風間さん、こちら、もしかしてヒヤシンスでいらっしゃいますか?倉川さん、最近ヒヤシンスが欲しいとしきりにおっしゃるのでもしかしたら…と思いまして」

 そう言うと、夏代さんは初めて私に笑顔を見せた。さっきは随分と疲れた顔をしていると思ったが、こうしてみるとさながらナイチンゲールの如く、慈悲の心の溢れた人であることがわかる。

「やはり…倉川はそう申しておりましたか。以前から欲しい欲しいと申してはいたのですが、なかなかお花屋さんに並ばないもので」

「ええ、そうですよ。もうすぐきっとヒヤシンスが届く、ヒヤシンスが欲しい、と。それから風間さん…いえ、巴さんはどうしているだろうか、とも時々おっしゃっていますよ。面会ができるようになりましたら、お勤め先にすぐ連絡させますわ」

 私は、倫哉さんはまだ私を想ってくれていることも嬉しかったが、夏代さんの言葉から、面会謝絶が解ける日が来る可能性があることを知り、その日を心待ちにする気持ちとともに、ヒヤシンスを夏代さんに託した。

五月のそよ風をソーダ水に

 その後も高町さんからは、たびたび会社に機関誌と手紙が届いた。中にはきっちり封をされた倫哉さんからの私信が同封されていることもあり、それを読む限りは、面会謝絶で、死の床に就いているひとの書いたものとは思えないほど生き生きとしていた。

『巴さま
 お元気にしていらっしゃいますでしょうか。
 先日はかねてから所望しておりましたヒヤシンスを持ってきて頂き、本当に心嬉しく思います。
 私が少し元気になりましたら、五月のそよ風をソーダ水に溶かして、巴さんに持ってきて頂きたいです』

 倫哉さんが設計士で詩人というところで既に珍しい身の上ではあるが、設計事務所の印刷の匂いの中でこのような詩的な文章を読むと、さらに不思議な気分になってくる。

 それにしても、五月のそよ風をソーダ水に、とは倫哉さんらしい、爽やかな表現である。
 とはいえ、今は1月、いくら管理の行き届いた療養所とはいえ寒いだろうし、ストーブで暖をとりながらも、ソーダ水などという言葉が浮かぶだろうか…ロマンティックな感傷の中に、私はある疑いを持っていた。

 のちに夏代さんの話から判明したのだが、私の疑いは当たっていた。
 倫哉さんは、その手紙を書いた頃、常に高熱が続いており、常に喉が渇いた、ソーダ水のような爽やかな飲み物を、とうわ言のように繰り返すことが多かったのだと言う。

 結局、その後少しの期間、病状は落ち着いたものの、それは一瞬羽を休めた蝶のようなものに過ぎず、倫哉さんは再び高熱の中、喀血を繰り返し、面会謝絶令が解けることなく、空へ羽ばたいていってしまった。

 夏代さんや数人の看護婦に看取られ、その短い命を燃やし尽くした倫哉さんは、最期まで詩作を続け、何と設計図まで描いていたというのだから驚きであった。

 私は、倫哉さんの葬儀にはお母さまのご厚意により、家族側として出席させて頂いた。

 なるほど、あの時のお母さまのお考えは英断であったのだ。
 私は今、もちろんこの世で最も愛する人を喪ったのだから悲しくないはずはないが、心が掻き乱されるような感覚はない。

 その分、倫哉さんの生きた証である、高町さんたちが編纂してくれた彼の詩集と、病魔に蝕まれながらも、心穏やかに微笑んでいた彼との思い出を、静かに抱き締めていられる。

 はて、夏代さんにも聞くのを忘れていたが、私の贈ったヒヤシンスは咲いたのだろうか。

 いつか、ヒヤシンスは漢字では「風信子」と書くのですよ、と倫哉さんは教えてくれたが、まさに、風を信じた子のように素直に、しかし、少しだけ性急に所望した五月のそよ風の中へ、あの人は帰っていったのであろう。

 きっと今は、ソーダ水の中ではなく、さらさらとした爽やかな風そのものの中で、詩をうたい、長いこと叶わなかった自由な旅を楽しんでいるに違いない。

#忘れられない恋物語

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