自責と他責の間:サラリーマンが幸せになる方法 その39
これは、サラリーマンが幸せになるために「ありたい自分( being )を軸に持ち、ありたい自分を良好な状態( well-being )にし続けること」について書かれた note です。
何でも他人や環境のせいにして自己正当化する他責思考。問題解決が遅れ、自己成長が止まり、怒りっぽくなるそうです。そこで原因は自分にあると考え自己解決し自己成長につなげる自責思考が良いと言われています。しかしそこに潜んだ罠に気付いていない人も多いと感じています。どういうことか、考えてみましょう。
罪悪感
先日、レジリエンスの講座で「思考のワナ(バイアス)」とそこからの抜け出し方のワークショップをしていたとき。自責で考える思考のワナから抜け出すワークで「他者に責任を押し付けている」と罪悪感を感じ、他責のワナから抜け出すワークでは「全部自分が悪い」という自己批判の辛さを感じました。
そこで講師の方に、どうしたらよいか質問したところ「それでいい」と言われました。
どういう事でしょうか?
解説していきます。
外面化
まず他責思考から考えてみます。
売上が悪いのは製品のせい。上手く行かないのはあの人のせい。こんな性格になったのは親のせい。こうした全て他者や環境など、自分ではない要因によると考えるマインドセットのことですね。
「どうせ」「無理」「無駄」と、行動しない自分を正当化し、無力感にとりつかれ、自己効力感が下がってしまいます。また他責思考は自己防衛のマインドですので、同じ自己防衛機能の「怒り」を呼びやすくなります。
すると、
すぐ他人のせいにする怒りっぽい人
どうせ上手く行かないと無気力の人
の出来上がり。
これはその通りと身をもって感じています。なにせ私が他責思考のかたまり。子どものころから「生まれ持った貧弱な身体のせい」「喘息のせい」「努力できない性格のせい」等と全てに言い訳をしてきました。おかげで全然努力できない大人になったという訳です。
しかしここで「自己防衛」に注目してみます。
そもそも自分を守ることは悪いことでしょうか?守る=甘やかす、ではないはずです。守らなければならない状況では必要な能力なのだと言えます。進化で身に着けた本能なのです。
レジリエンスでは「外面化」という思考のワナの一つとされています。ワナなのですが、決して全てが悪いという訳ではありません。
次項でそこを考えていきましょう。
個人化
他責に対して自責思考。
他人や環境のせいではなく、自分の身に起こる全てを自分の責任と考えるマインドセットと思われがち。しかしちょっと違うのではないでしょうか?
よくSNS等で目撃する、ゆがんだ自己責任論と同じものを感じます。望んで子供を産んだのだから苦労しても自己責任。SNSで炎上発言したのだから攻撃されても自己責任。肌の露出の多い恰好だから痴漢にあっても自己責任。
違いますよね?
何でもかんでも自責とするのは逆に思考停止だと思うのです。本来、自責思考という言葉で伝えたいことは、自己批判ではなく自己効力感のはずです。「自分が悪い」ではなく「自分で何とか出来る(出来た)かも知れない」という可能性や物事への関与の姿勢、「誰のせいでもない」という吹っ切りだと思うのです。
ゆがんだ下向きの自責思考は、レジリエンスの思考のワナでいう「個人化」です。このバイアス下では自尊心を失い、悲しみと罪悪感を抱き、抑うつ状態になりやすい傾向があります。
そこで外面化(他責思考)の出番です。
何もかも自分の責任と考えるのではなく、自責で考えたあと本当にそれだけだろうか?と他責で考えてみるのです。すると自己批判では気付かなかった改善ポイントが見えてきます。手順が悪かった、役割分担が悪かった、相手の機嫌が悪かった、など。
本来の次のアクションが分かりますし、なにせ他責の防衛機能によりメンタルが守られます。他責思考者はメンタルが強いそうです。
どうりで私、メンタルだけは強いんですよね。
観察する
もう少し自責と他責を行き来する思考を考えてみます。
自責で「やれる事」を考え、他責で「自分の力の及ばないポイント」を見極める。100%どちらか極端に寄るのではなく、柔軟に両方から考えることが思考のワナから逃れる方法なんです。
このとき、自分の感情、自分のメンタルの観察が大切です。
自己批判に寄り過ぎていたら外面化(他責)で考え、無責任になり過ぎていたら個人化(自責)で自分事として考えます。他責と自責のバランスをとるのです。このとき重要なのは、感情に蓋をするのではなく、メンタルを観察してありのままに受け入れる姿勢です。
講師の方の言う「それでいい」の答えがこれです。
罪悪感はあっていいというのです。
責ではなく可
私が思うに他責・自責ともに「責」という言葉が良くないと思うのです。責は責任以外にも責めるとか呵責など言葉のイメージが良くない。
「自責思考にはセルフコンパッションが鍵」
先の講師の方の言葉です。
セルフコンパッションの意味はこうです。
自分に向ける「思いやり」「優しさ」「慈しみ」のことであり、自身の「強み」(長所)・「弱み」(短所)を認め、どんな状況下でも「あるがままの自分」を肯定的に受け入れられる心理状態のことである。また、それを実現する技法を意味する。
つまり自責とは、自分を責めるのではなく、自分を思いやりながら出来る事にフォーカスすることだと私は考えます。全部背負い込むことではなく、自分の可能性を探ることなんです。世界が平和じゃない事に責任を感じることじゃなく、世界の平和のために自分に出来る事は何か?と考える事なんだと思うのです。
だから責ではなく可(可能性)としましょうよ。
自可思考。
または、
自己可能性思考。
としてみるのはいかがでしょうか?
まとめ
1.他責と自責を行き来する
2.批判じゃなく出来る事は何か?
3.自己可能性で行こう!
自責思考はプレイヤー、他責思考はリーダーに向いている要素という人もいます。私はリーダーじゃないのに他責に寄り過ぎです。しかし平和が好きなので他人のせいにすることも罪悪感で辛い。
ワークショップでその罪悪感が沸いたとき「それでいい」「観察してありのまま受入れる」という言葉に救われました。そうだ!必要なのは自分をありのまま観察することなんだ!という閃き(というか導き)は、私の財産だと言ってもいいでしょう。
この考察があなたのヒントになれば幸いです。