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「人間関係」の勉強
どんな科目よりも、どんな訓練よりも、
一番難しいのって人間関係なのかもしれない。
そんな風に思ってしまった。
それはいくら年を重ねても未熟な人は未熟なままだし、
たとえ年齢が若くても大人な人は大人だ。
またこの人間関係の難しいところって
大人な人ほど我慢することにあると思う。
我慢できる方が我慢する。
確かにそれはその瞬間は手っ取り早い解決になるかもしれない。
だけど結局それはその場しのぎ。
我慢したという事実はなくならない。
我慢は知らず知らずのうちに積み重なって、継ぎ足されて。
いずれ溢れる。
優しい人ほど、我慢する人ほど、その水が溜まっていることに気づかなくて。コップから水が溢れてから「もう限界」ということに気づく。
一方で我慢しない人はきっとそのまま。
そしてもし目の前から今までいた人がいなくなっても、
「なんでいなくなったんだろう?」
くらいの感覚にしかならない気がする。
いやむしろ、せめてそうであってほしいと願う自分もいる。
わざとそうなるようにやっているのだとしたら相当に質が悪い。
まぁそれがどっちであろうとしても、きっとまた繰り返す。
じゃあ周りが出来ることってなんだろう。
変化に気づけるに越したことはない。
でも我慢できる人は変化を隠すのも上手い。
原因となる人に声掛けをする?
言って/伝えて変わるなら、
きっととっくに変わっている。
だからといって伝えることはあきらめちゃだめだが。
結構難しい問題。
すぐに出来ることとすれば、
とにかく話を聞いてあげることなのかもしれない。
我慢しなくてもいいよ、と安心させること。
大丈夫だろう、は大丈夫じゃなくて、
上手くやってくれている、は表面だけかもしれないと思うこと。
そういえばつい最近見た車の安全運転ビデオのようなもので、
「大事なことは”かもしれない運転”だ」
と言っていた。
”飛び出してくるかもしれない”
”曲がってくるかもしれない”
”かもしれない”を想定することで、準備ができる。
人間関係も一緒なのかな、って。
”かもしれない”運転は当事者の問題だけど、
人間関係に関してはむしろ第三者の意識が大事だと思っていて。
きっと私が当事者だったら、今回のような気づきはなかったはず。
第三者の立場だったからこそ、
もっと何か出来たことがあったのではと考えた。
もっと”かもしれない”の前提に立てたのでは、と思った。
なんかいつもの記事のテイストとは違ったが、
今日書きたいことは今日書くというスタイルは貫いた。
むしろ今日書くから意味あること。
人間関係の勉強は、一生かかっても終わらない。
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