「出来ない」と「やりたくない」
記事にしてみたいことは突如降りてくるものだ。
だけど大抵「あ、でも過去に書いたことあるかも…」となる。
記事を検索してみる。案の定、書いてある。だけど過去に書いたものはまだ抽象的だったりする。だからより詳しく言語化する。
というわけで、今回書きたいのは過去の
のちょっとした深掘り。
上記の記事の概略をお伝えすると、自分の働いている就労支援に関わっている「合理的配慮」の部分について考えたもの。企業側に合理的配慮が義務化されると言われている中、じゃあ「配慮」と「わがまま」の線引きってなんなんだろう、と考えたものだ。
してほしい配慮はちゃんと伝えなきゃいけない。でもそれが増えれば増えるだけ、企業側としても出来る対応は限られる部分である。手を引く企業が出てくるのもあり得ない話じゃない。
また配慮には「自分なりに対処出来ること」の提案も必要で。一方的なお願いに留まると、「あなたはどうするの?」となりかねない。それに加えて大きな部分となるのが、それが本当に「出来ない」のか、ただ「やりたくない」だけなのか。ここって似ているけどまったく違う。
これって合理的配慮の域に留まらず、私たち自身も結構直面する部分だ。
なので今回はこの部分をもう少し考えてみたい。
人間、「出来ない」ことってある。
例えば「障害特性上、〇〇が出来ません」というのはある話。もっと身近な話で言えば、「体調不良になったので、今日お休みさせてください」みたいなケース。これは体調不良だから出勤が難しいことを意味する。それを強制的に出勤させるのは当然よくない。
でも「出来ない」なりに出来ることってある。
例えば、「〇○はできないけど、ここまでなら出来ます」とか、「体調不良になったので、今日はしっかり休んでなるべく早く回復できるよう努めます」みたいな。出来ないなりにも出来ること。
ベストが難しい時にベターの選択肢を持っているか。
高校時代、部活の監督に言われて印象に残っている。
「出来ない」とは別に「やりたくない」ことってある。
人間感情があるから好き嫌い、得意不得意があるというのは致し方ないもので、やりたくないことがあるのも個人的には仕方ないと思っている。
でも組織であればあるほど、そんな個人のわがままが通用することなんかない。やりたくなかったとしても、やらなきゃいけないんだから。
じゃあやりたくないことを嫌でもやり続けるのか、というとそれも選択肢の1つだがそれ以外にもいくつか選択肢はあると思っていて。それが大きく2つ。
①に関して。
基本的に何かを「する」際にはそれをする目的があるわけで。その目的としている部分の結果が、やりたくないことをやる時と同等かそれ以上のものを残せるのであれば申し分ないと思っている。「する」は手段だから。
②に関して。
また違った角度で言うと、本当にどうしてもどうしてもいやだというなら逃げればいいと思う。逃げるという言い方が適切かはわからないが「離れる」という意味で。自分の人生は責任が自分だから逃げることって難しいけど、例えば会社とか学校みたいなどこかのコミュニティに属すとき、自分がしんどくて嫌になってまでそこに留まる必要はないと思っている。
もちろん逃げ出しづらい要因もたくさんある。だけど自分を押し殺して居続けることと天秤にかけたとき、どっちが最善の判断かの感覚は持ち合わせていたいな、と。
①も②も難しいのであれば、まずは「やりたくない」ことをやり続けるしかない。
自分にとっては「やりたくない」ことだとしても、自分たちより先にいろんなことを経験して、傾向を掴んできた先人たちが見つけ出した最良の方法が”それ”なのだから、自分の”やりたくない””やっても無駄”より説得力はある。(もちろん時代の変化による錯誤もあるが)
「やりたくない」の状況を変えるには上記くらいの覚悟が必要なんじゃないか、と。でも自分の生活や感情をよくしていくためなら安いものだとも思う。
「出来ない」なりにも出来ることはあるし、「やりたくない」のならやるべきことがある。
この感覚は持っておきたい。