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まじめについて、また考えた。

定期的に「まじめ」について考えている気がする。

まじめで損をし、まじめで得をし、まじめで頼られ、まじめで悩む。
まじめについてまじめに考え、noteでも記事にしてきた。

自分自身が考えすぎてしまう性格だからかかわかんないけど、言葉を大事にするがあまり言葉に縛られてしまうことも多々。そんなことを思いながらも「何も考えない」ことと「考えながら生きていく」ことのどっちかしか選べないと言われたら後者を選んじゃうんだろうな。生きづらいかもしれないけど、それが自分の生きがいだったりする。

そんなこんなで「まじめ」について考えていくんだけど、もうここまでの文章で答えが出ているなって気がしていて。

結局は”誰のためのまじめなんだ”ってことなんだと思う。

誰かの顔色を気にしたまじめは何かに縛られている感じだ。
「そうじゃなきゃいけない」「そうじゃないと自分の価値が」
昔の自分がそうだった。

それはそれで充実していた。誰かの期待に応えられている瞬間は、「これでいいんだ」そうやって自分を肯定できていた。

でもふとした瞬間に、隣の芝生が青く見える、

「自分は何しているんだろう」

って。

誰かの期待に応えることは素晴らしいことだ。誰かのために生きることは尊いことだ。私も「誰かのため」という思いはずっとある。だけど誰かが自分を生かしてくれるわけじゃない。誰かが自分の人生の責任をとってくれるわけじゃない。最終的に全部返ってくるのは自分自身だ。だからその選択をしているのは自分だということを忘れてはいけない。

「誰かのため」であっても、それが巡り巡って自分のためであって、自分のためにその行動を選択しているのだということを忘れてはいけない。

つまり、まじめに向き合うべき相手は”自分自身”なんじゃないかと思っている。

自分が何を思っているのか。
自分がどうしたいのか。

ここに対して真摯であればたとえそれがどんな結果になったとしても後悔しないんじゃだろうか。それくらいに自分のことを信じたっていいんじゃないか。

そう思えば、やっぱり”まじめ”って悪くない。
むしろカッコいい。

これからずっと、自分に対して”まじめ”でありたい。

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塩浦良太
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