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実像と虚像

実像と虚像なんて、久しぶりに頭に言葉が浮かんできた。

中学の理科でならうやつだ。
実像は、物体を凸レンズの焦点の外側に置いたときにできる像で。スクリーンにうつすことができ、実際の物体とは上下左右が逆の向きになることが特徴。

一方で虚像は、物体を凸レンズの焦点の内側に置いたときにできる像で。
スクリーンにうつすことができず、実際の物体と同じ向きで、大きくみえることが特徴。

ここで理科の授業をするつもりはないし、なんなら自分は文系だから上手く説明できる自信もない。純粋に比喩として使いたかったから、だけど気になって調べた結果、

「たしかにそうだよね。やっぱり言いたいことと感覚一緒。」

という感じ。


うまく表現するのが難しいんだけど、ここのところずっと「実像と虚像」で士気を高められているし、その一方で大変さも出ているな、と思う。

役割を与えられることは恵まれていることで、それが望んでいるものであればこのうえない幸せで。その傍ら、役割が与えられた瞬間に、周りはその「役割」のイメージで相手を捉えるようになると思っている。

わかりやすいところで言うと、ちょっと古い言葉になるけど「育メン」とか。「育メンと呼ばれている人だったら、育児に熱心で、~~で、~~で」みたいな「育メン」という言葉に対して描いているイメージ、その人が出来るであろう能力をあてこんでく。

例えば「先生」とかもそうだろう。「先生なのだったら、その教科に詳しくて~、人に教えるのが得意で、~~で」みたいな「先生」像がある。

きっと知らない領域であればあるほど、言葉・単語に対してのイメージが先行し、それで意味づけをしていく。これは全然不思議なことじゃないという一方で、物事を大きく捉えすぎてしまっているという側面もある。

もっとそれぞれに個別性を見ていけたらいいんだろうけど、まぁそれも簡単じゃないよね、という話だ。


その言葉に対してもたれるイメージが、「実像」である方もいるだろうし、そこを目がけてやってはいくんだけど、それでも「虚像」になってしまっている方もいるんじゃないかと思う。

つまり、自分の実態はまだそんなんじゃないのに、周りが自分に対して持つイメージが先にどんどん大きくなってしまっていること。そのギャップを埋めるのに必死になりながらも、虚像がどんどんどんどん先をいってしまうこともある。


ここに対しての具体的な解決策があれば、すぐに答えているんだけど、ないからダラダラと書いているわけで。

結局今考え得るできることはざっくり2つしかない。

①実像と虚像のギャップを埋める
②「それは虚像です。私はそこまでじゃありません」

どっちも大事な選択肢だと思う。何を優先順位にするかの話であって、どっちが悪いとかじゃなくて、どっちを選んでも尊重されるべきだ。

もちろんギャップを埋められるに越したことはない中で、その過程で自分自身が壊れてしまったら元も子もない。


どっちを選ぶか、って難しいなと思う一方で、「自分はこっちを選ぶんだろうな」というのが透けて見えてくるのもちょっと面白い。


実像でも、虚像でも、自分自身は自分のサイズ感を見誤らないようにはしていきたい。

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塩浦良太
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