伝えるために、伝えないこと
最近ちょっと広報系の記事が多めになっちゃうけど、今日もそんな記事を思いついたから。
noteと同じくらい、Xを眺めている。
Xは自分がよく見る投稿の傾向が機械学習されて、そこに関連するジャンルの投稿がたくさん流れてくる。
言わずもがな広報関連の投稿はたくさん流れてくるわけで。
そんな中で最近ある投稿が議論をよんでいた。
ここでその内容について深く言及はしないし、自分事としてものすごく考えた内容だった。
最近投稿した上の記事でも書いた。
発信には再現性と責任が必要だと思う、と。
広報というのはジレンマと戦うものだと思っている。
「伝えたい、多くの人に届いてほしい!」という思いと、
「自分が挙げる声は会社全体の責任も背負っている」という思い。
会社単位で見た時には、何十人何百人といる社員の中の一人かもしれない。でもそれがいざ外に出た時、発信した人間=会社のイメージ、につながるといっても過言ではない。
背負うものが一気に大きくなるのだ。
だけど「発信」って良いのか悪いのか塩梅が難しいもので。
強い言葉は興味を惹く。だけどその分、違和感を覚える、引っかかる、傷つく人も多くなる。
かといって誰も傷つけない・無難な言葉は、結果何も伝わらないことだってある。
伝えたい想いが強くなりすぎて周りが見えなくなっちゃいけないし、かといって周りを気にしすぎて何を伝えたいのかわからない、みたいなことになってもいけない。
ここの距離感ってずーーーーーーーっと考えていかなきゃいけないとこだな、って思う。
影響をわかっててそれでもあえて言葉を選ぶのはいいと思う。それこそ責任だから。一番避けたいのは、そんなつもりがなかったのに傷つけちゃう・違和感を与えちゃう人がいること、かなと。
ここを割けるにも必要なのは、いい具合の「俯瞰力」と「届けたい相手に対しての知識」だと思う。伝えたいが強すぎて前のめりになり、死角が生まれていないか。そもそもどんなことに配慮しないといけないか、知識として知ってるか。
若手だから、とか、未経験だから、とかは言ってられないもので。
責任を背負った時点で一人のプロフェッショナルとして見られる。
そこの覚悟はちゃんと持たなきゃだし、それはやりがいでもあるなと。
何はともあれ日々勉強し、日々意識し、それでも伝えたい人に伝わるように、は大切にしていきたい。
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