見出し画像

言葉にする意味、しない意味

言葉が与えられることでそこに意味が加わる。

言葉が与えられないことでそこに想像が膨らむ。


言葉を自由自在に、局面に応じて、用途に応じて使い分けられる人でありたい、そんな風にふと思った。

私たちはわからないものに対しては恐れを感じる。それが自分に害を与えるものなのか、それとも得を与えるものなのか。最悪のケースを想定する傾向にある私たちはよくわからないものを遠ざけがちだ。

だからそこに言葉という「意味」が加わると安心する。見えなかったものが見えるようになる。人を安心させるための手段としての言葉は積極的に使っていきたい。



その一方で、最近は言葉で溢れすぎている傾向もある。説明されすぎているというか。

テレビでも「※許可をとって撮影しています。」とか「※撮影時のみマスクを外しています。」とか。

たしかに言葉が与えられることで安心はするのだけど、常にその安心が与えられていると人間考えるのをやめてしまう。考えるのをやめてしまうと、そこに自分の意見というものがなくなる。そこに自分の意見がなくなると、いざ何か考えなくてはいけなくなったときに自分の立場というのがわからなくなる。

そもそもなんか窮屈に感じる。

それだけじゃない。

言葉が与えられることで、解釈が限定されてしまう。

これは私の感覚になってしまうのだが、そこに答えが与えられてしまうともう「それ」にしか見えなくなってくるのだ。

いわんとしていることがお分かりいただけるだろうか。

例えばテレビで謎のダンスが披露されていたとしよう。今までに見たことのないダンス。そのダンスに対し、

「このダンスは○○というダンスで、○○発祥で、○○という意味が込められていて、、、」

という解説がついているとする。

たしかにその解説がつくことによってダンスの輪郭が見えてくる。得体の知れなかったダンスに意味が加えられる、名前が付く。たしかにそれで安心はするかもしれない。ただそれ以上の広がりというのはその瞬間なくなる。「そういうもの」と定義づけられてしまう。

なんかこれってすごくもったいない気がしていて。

そこに解説がつかなかったらきっと私たちは想像する。

「なんだろうこのダンス?」
「なんの動き?」「どこ発祥?」
「なんの意味があるんだろう?」

想像を始めると考えは枝分かれのように広がっていく。考えれば考えるだけ頭を使う。想像力が広がる。それに意味があると思うんだ。

、、、、ちょっとうまく説明できない(笑)
あえてうまく言葉にしないことで、皆さんには自身に当てはめて考えるとどういうことか想像してもらって(笑)


もちろん正解が必要な場面はある。

その時はどんどん「言葉」という意味を与えていきたい。

だけど時にはそこまで正解が必要じゃない場面もある。かたちとしての正解はあるけど、それが身の危険を及ぼすほどのものではないとき。

そんな時はあえて言葉を与えないという選択をとってもいいんじゃないかって。考える余白を残したほうがいいんじゃないかって。


人間の魅力の一つってその想像力で。考える力で。

そして答えが通用しなくなったときに頼りになるのがその考える力であって。


いきなり話は飛ぶんだけど、普段仕事で行っている就労支援でも言葉を与える/与えないの使い分けは結構意識している。

今すぐに答えを与えるべき状況なのか、あえて与えずに考えてもらう状況なのか。目先の結果で考えずに、その先のことまで考える。

だから時にはその瞬間に答えを与えないことがやさしさだったりする。


そんな風に、言葉を自由に操れる、そんな人を目指したい。





いいなと思ったら応援しよう!

塩浦良太
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!