わからないから動けないのか、動かないからわからないのか。
「わからないから動けないのか、動かないからわからないのか」
これの2つって結構似ているけれど、その差はデカい。ものすごく。
私自身、最近言い聞かせるようにしている。
”わからないから動いてみる”
自分が出来るのかどうかわからない。だから試しにやってみる。
これであっているのかどうかわからない。だから実際聞いてみる。
わからないことをそのままにしない。
わからないことを言い訳にしない。
それでもたまに弱い自分が顔を覗かせるのだが。
その時のためにこの記事を書いている。
そして過去に書いた以下の記事にも通ずる部分がある。
繰り返しにはなるが、何度も自分に言い聞かせている。
「わからないからこそ動くんだ」
と。
だって油断していたらいつの間にか前者(わからないから動けない)に落ち着いてしまうから。言い訳してしまうから。その選択をしている自分が正しいと思ってしまうから。
基本的に人間は自分のことが大好きだ。自分のことが大切だ。
だから自分を守ろうとする。自分のことを肯定しようロする。原因を周囲に擦り付けようとする。
「わからないのは、自分のせいではない。教えてくれない周りが悪いんだ」
みたいに。
ここまでいってしまったらもう手遅れだ。なぜなら自分が悪いと思っていないから。
でもよくよく考えたい。
「わからない」ということを知っているのは自分だけなのに、自分のわからなさを周囲に知ってほしいなんて都合のいい話だ。
周りもサポートのしようがない。
「わからない」から動くことによって、周囲は「この人わからないんだな」ということに気づき、そこから教えてもらえたり、話が広がったりする。
結局は自分からアクションを起こすしかない。
でも自分から動くのには労力が必要。面倒くさい。だから動けない。動かなくていいや、ってなる。言い訳を考える。「わからないから動けない」に落ち着く。
”言い訳は良いわけない”
最近暑い日が続いているから、これくらいのひんやり感あるダジャレもちょうどいいかもしれない。
要は行動第一でありたいということ。
もちろんタイミングを見計らって、あえて「今ではない」ということはあるかもしれない。それは全然アリだと思う。
ダメなのは「わからないから」「不安だから」「面倒くさいのが嫌だから」ということを理由に動けないこと。
わからないことをそのままにしておいても神のお告げがくるわけではないのだから一生わからないまま。
動くことによって、初めて自分はまず何がわからないのか、どこまで出来ているのか、次どうするべきなのかという部分が見えてくる。
”百聞は一「験」にしかず”
最近出会った素敵な言葉。
いくら情報を得たり、見聞きしたりしても実際にやってみないと分からない。そこから広がる世界はある。
いかに目の前にぶら下がっているチャンスを掴み取るか。
「チャンスの神様毛が1本」
小学4年生の頃の担任の先生がそう言っていた。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。
「わからないから動けません」そんな言い訳はどこかに捨てて、まずは1歩を踏み出してみる。
それが新しい何かへの挑戦でもいいし、「わからないから教えてください」でもいいし。
弱い自分が出てきそうになったときに、この記事に立ち返りたい。
動かないからわからないのだ、と。