みんな「主人公」だって忘れちゃいけないよね
思い込みって怖い。
怖いってわかっていながらも、気づくと沼にハマってる。
そういうもんだと思ってる。
よく、
って言葉を耳にする。
事実と解釈がごっちゃになると大変だ。
だけど人間、ピンチになればなるほど周りが見えなくなり、
自分が見える景色、その景色から感じ取ることの全てが世界共通の事実なんじゃないかって思ってしまう。
悪い方向の沼にハマるともうその沼から抜け出せない。
解釈は悪い方、悪い方へと広がっていく。
ここまでいうと解釈が悪なんじゃないか、
と思ってしまいがちだ。
でも全部が全部悪だとは思わない。
というか善とか悪とかじゃなくて、
人間が生まれながらにして持つのが”解釈”なんだと思ってる。
だって人間誰一人として同じ人はいないんだから。
解釈ってその人が育ってきた場所、
育てられてきた人、関わった人、
所属したコミュニティ、そこでの経験、
いろいろなものが組み合わさって出来上がっていくものだと思っている。
いわばその人「らしさ」みたいなものか。
全てが全く同じ人なんていない。
そんなのは誰しもがわかること。
経験してきたことが違えば、
そこで構築される価値観や考え方だって変わってきて。
自ずと同じ景色を見ても解釈は変わると思っている。
つまり、解釈というのは「自分の目からみた事実」なのだ。
ここまではもう「そういうもの」であって、
だから解釈は善でも悪でもなく、人間に備わっているものと考える理由。
大事なのはここからで。
そこで感じた解釈が、全世界の人間が全く同じように解釈していると思っちゃいけないということに気づけているかが肝心ということ。
人間って結構井の中の蛙で。
自分がいる場所が世界の全てだと思ってしまいがちじゃないだろうか。
加えて、多少大げさだけど、”自分を中心に世界が回っている”んじゃないかって思うこともあるんじゃないだろうか。
確かに自分の人生の主人公は自分自身だ。
ただそれと同じように、
誰かの人生の主人公だって、
その誰か自身であって。私じゃない。
こうやって文字にすると当たり前に感じるけど、
ここがごっちゃになることって案外多い気がする。
自分の想いが相手に伝わらなかったときとか、
って思うかもしれないけど、それは相手にも言い分があるわけで。解釈があるわけで。正義があるわけで。
「自分とは考えが違う人なんだ」と蓋を閉じてしまうのは早計だ。
解釈のズレを確認し合うためにも、話し合いをしていかなくちゃならない。
自分の物語だけで話を進めようとするから、解釈の違いやズレに納得いかなくなってくるけど、自分の物語を進めながら相手の物語にも入っていくという感覚になれば、なんだか捉え方は変わってくる。
相手には相手のルールがあるのだから。
これまでも何度か記事にしたことがあるけれど、
人生の楽しみの1つは様々な人の価値観の「モノサシ」を知る”モノサシ集め”だと思っている。
そのためにはいろんな人の物語の中に入っていかなくちゃならない。
そして誰かの物語の中では自分は脇役だ。
でも自分の人生は自分が主役じゃなきゃいけない。
主役は1人だなんて誰が決めたんだ。
みんながみんな、自分の人生の主役なんだ。
そう考えるとちょっと楽になるし、ちょっと楽しくなってくるのは私だけだろうか。