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解釈から「事実」が生まれることもある

事実と解釈を分けて考えなさい、というフレーズがある。

本当にその通りだと思っている。
解釈ベースで物事を進めようとしても、それっていわば主観に過ぎなくて根拠はないに等しい。ちゃんと事実と向き合って、事実から先を読んで何かを打ち出していく、ということは大事だ。

でもそれって、あくまで一人称(自分)の話であって。

そこに相手や第三者も入ってきたとき、途端に状況は難しくなるな、と思う。もちろんベースとなるのは「事実」と「解釈」を分けることだ。誰かの解釈、自分の解釈を起点に話を進めても、終着点にはなかなかたどり着かない。

じゃあ、解釈は無視していいのか、というとそういうわけでもないのが、この難しさだと感じる。というのも、「解釈」から新しい「事実」が生まれてしまうことがあるから


なかにはそれのいいケースもあるかもしれないけど、良くないケースの方が多いと思っていて。

巷でも、何かと「勘違いから生まれる事件」って起こりがちだ。勘違いって言わば”解釈の違い”で。その解釈のすり合わせがされないがために、誰かにとっての解釈が、そこから次なる行動を生んで新しい事実になる、ということにつながりかねないのだ。

わかりやすく言うと、
相手を思ってちょっと強めにした発言が、相手にとっては「自分は責められている、嫌われている」という解釈にいたり、そこから疎遠になる、
みたいな(?)


要は、解釈だって無碍にはできない、というわけで。

もちろん、1個1個の解釈と向き合っていたらそれは途方のない作業となりかねない。それに、誰かが我慢する、という状態に陥ることだって否めない。

でも、時には時間をかけてでも解釈に向き合わないといけないときもあるんだと思う。そのずれのある解釈から、また別の事実が生まれてしまわないためにも。

そのためにも対話って大切で。肯定とか、否定とかじゃなくて、1回お互いの考えを整理し合うっていう作業が、スタートラインになってくる。頭ではわかっていても、実際にやるのは簡単じゃないんだけど。

まずは、意識する、ってことから始めるわけです…!


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塩浦良太
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