合理主義からの脱却と、風に立つライオン
今日のnoteは、「合理主義からの脱却と、風に立つライオン」というテーマです。noteで募集中の #寄付について考える をきっかけに、合理主義から抜け出したら、寄付ができるようになった話をしようと思います。
なんで余裕もないのに寄付しないといけないんだ・・・
僕は、寄付が嫌いでした。
・・・嫌いと書くと、めちゃくちゃ嫌な奴みたいになりますが、少なくとも「余裕もないのに、なんで寄付なんてするんだろう?」って思っていました。
というのも、僕の母親は海外の学校に行けない子どもの里親になるような仕組みの寄付をずっとしていたのですが・・・
僕は中学生くらいのころ、そのことを知って、素晴らしい・・・とは思わずに、お金もないのに、なんで他人にお金あげてんの・・・?って思っていました。(ごめんなさい!)
なぜなら、我が家は普通の(おそらくは、普通より少し低い水準の)会社員の家庭で、いつも「お金がない」と騒いでいたからです。子どものころから、欲しいものを我慢するのは当たり前で、この頃も高校入学を前に、私立だとお金が・・・というプレッシャーを(ほんの少し)感じていた時期だったと思います。
その頃の僕は(いくらまだ中学生だったと言っても)、「おいおい、金もないのに他人の子どもにお金贈ってる場合じゃないでしょ・・・僕にスラムダンクの最新刊を買ってくれよ・・・」とは言わない程度の品と良識は身に着けていました。
でも、心の中では、寄付というのは
①お金を捨てたいくらい余ってる人(それだけ稼いだことが素晴らしい)
②有名人の売名行為(名を売るために寄付してくれるって素晴らしい)
という人が実行する行為だと思っていましたし、
③金がないのに他人にあげたい人
という謎のカテゴリーが誕生した・・・それが実の母だとは・・・
とか思っていました。とても嫌な中学生です。
寄付してもイライラする
そして月日が流れ、大学生となった僕は、しばらく考えもしなかった寄付というものをすることになります。
なぜなら、女性にモテると思ったからです。大学生の頃の僕は、とにかくモテないといけない・・・大学生になった意味がない!という行動原理で、単位も取らずに遊びとバイトに明け暮れていました。(そして、中退することになりますw)
今となっては、なんで寄付したらモテるのかよくわかりませんが、デートの時はコンビニの募金箱に積極的にお金を入れたり、ユニセフ(有名だったから)に毎月1000円くらい寄付したらしていました。
ただ・・・・そのユニセフも3か月くらいしか続きませんでした・・・
なぜ続かなかったのか。
それは、別に寄付してもモテないからです。
いや、本当に、なんでモテると思ったんですかね・・・?お金がないのに寄付をしたことで、むしろイライラしていました。嫌な奴ですね。
そして、僕はこの経験で、寄付をする人は
①お金を捨てたいくらい余ってる人(それだけ稼いだことが素晴らしい)
②有名人の売名行為(名を売るために寄付してくれるって素晴らしい)
③金がないのに他人にあげたい人(母)
の3パターンであるという考えに、より強い確信を得たのです。
風に立つライオン
そんな僕が、今年から寄付を始めました。
さだまさしさんの「風に立つライオン」という曲を聞き、感動したことがきっかけです。
震えるほど感動した後、映画も見ました。
ちょっとわざとらしい気が・・・と思うシーンがいくつかありましたが、(僕は映画評論家でもなければ、評論的にコンテンツを見ているわけでもないので)さだまさしさんの曲への熱にほだされて、めちゃくちゃ感動しました。
この映画をきっかけに、風に立つライオン基金という団体も発足したそうです。
そして、大学生のころから20年の時が経ち、僕はその「風に立つライオン基金」に毎月少しずつ寄付をすることにしたのです。
僕は、「ささやかで偉大な活動を行う」どころか、日常の生活に精一杯ですが、少しのお金を贈ることで、「ささやかで偉大な活動を行う人を応援できる」なら・・・って思いました。
お昼ごはんのカレーを我慢して、半年続いています。これからも、続けていくつもりです。
20年の間に何があったのか
大学生の頃の僕と、今の僕は、何が違って寄付をするようになったのでしょうか。
「寄付をする人は
①お金を捨てたいくらい余ってる人(それだけ稼いだことが素晴らしい)
②有名人の売名行為(名を売るために寄付してくれるって素晴らしい)
③金がないのに他人にあげたい人(母)
の3パターンであるという考え」
を持っている僕が寄付をするようになるには大きなきっかけがないと説明がつかないように感じませんか?
僕は、これについて、明白な答えがあります。それは、
「合理主義ではなくなったこと」
です。
20年の間に起こった変化というよりは、5年前に結婚したこと、そして、3年前に子どもが産まれたことが大きなきっかけでした。
頭悪い系合理主義者だった僕
僕は、昔から、頭悪い系合理主義でした。
さっきから出てきているような寄付をする人の定義をしてしまうことでも性根の悪さは明白ですが、全てをコスパや効率で考えていましたし、それが正しい(あと、カッコいい)と思っていました。
そんな僕からしたら、結婚なんて言うのはすごくコスパが悪い行動ですし、子どもを育てるなんて、自分の人生の喜びを犠牲にする営みでした。
子育てとか、まじめに仕事するとかそういう大変なことを他人にやってもらってフリーライドするのが、賢くて幸せな生き方であると信じて疑いませんでした。
どの本を読んでも同じことが書いてあるタイプの、そっち系の自己啓発本を読み漁り、受け売りばかりしていたのです。
今の時代だったら、
「電話は人の時間を奪うからクソ」とか
「生活保護はコスパが良い」とか
「おなかが減ってればなんでもおいしい」とか言ってそうですw
「天皇制とか意味あるんですか?」「印鑑って必要ですか?」「年功序列って害悪ですよね」とかも言ってそうです。
まあ、そんな感じのそっち系のWebメディアに量産されているタイプの人間の頭悪いバージョンでした。(あの人たちは頭良いから素晴らしいですよね)
合理主義の呪いから脱却しつつある
そんな僕は、5年間の結婚生活を経て、子どもが2人に恵まれ、少しずつ、合理主義ではなくなってきています。いや、むしろ、アンチ合理主義的になってきています。
結婚生活にも、子育てにも、どう考えても合理的な部分がほとんどないからです。
でも、その合理的な部分がない行為ほど、僕に生きているという実感を与えてくれています。
そもそも、僕は何のために合理的になろうとしていたのでしょうか。
僕は、生きることは、ただひたすらに現実に身を寄せることだと思っていますが(簡単に言うと、特に生きることそのものに意味はない)、それを合理的にすることで何か意味があるのでしょうか。効率的な無意味な人生ってなんなのでしょう?
人生そのものを楽しんだり、今この瞬間を素敵だと思える過ごし方をすることのほうが、何倍も価値があるのではないでしょうか。合理的なことなんて仕事だけで十分ではないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれたのが、僕にとっては結婚であり、子育てです。
はい・・!いつ寄付の話するんだよ・・・!
って思っている方もいるかもしれませんが、ここからが寄付の話です。
実は、合理主義から脱却する(脱却することが良いことかはわからない)と、お金の捉え方が変わります。
合理的に考えているときは、
お金=利益との交換券
でした。
お金を払う以上、それ以上の価値のものと交換するべきであるという考えです。
なので、お金を払っても何も得ることがない寄付という行為は、お金持ちか売名か変わった人の行動だと思ってしまっていたわけです。
そんな合理主義から脱却した今は、
お金=感謝と応援のしるし
という感覚です。
お金を払う対象も、とにかく安かったり、コスパが良いモノを求めることはなくなり、お金を払った分の見返りを求めるのではなく、そのサービスや対象への感謝と応援の気持ちでお金を払うようになりました。
すると、見返りよりも、お金を払った相手がより良くなることを願うようになります。もはや、サービスにお金を払うことも、寄付をすることも広い意味で同じことになっていくのです。
そうして、何かを買うこととほとんど同じ感覚で寄付をするようになり、合理的な人生より、「ささやかで偉大な活動を行う人を応援できる」人生のほうが豊かだし、素敵だなって思うようになりました。
最後に
余談ですけど、見返りを求めなくなったことで、先日、グリーン車に乗ることが出来ました。(一見関係なさそうですが)
もちろん、今まで乗ることが出来なかったのは、お金がないというよりも、「目的地は同じなのにお金を余計に払うなんて合理的ではないから」です。
今回は在来線のグリーン車に乗りましたが、昔、特急のグリーン車に一度だけ乗って、元が取れないと感じたとき以来にグリーン車に乗りました。
今回グリーン車に乗って、「元を取ろう!」という気持ちがなくなった自分に気がつきました。たぶんコスパは良くないけど、ゆったり仕事しながら目的地へ向かうことができました。
きっと、今の僕なら、バイキングに行って、元を取ろうとして気持ち悪くなることもないでしょう・・・!
そういった意味で、僕は、グリーン車やファーストクラスを使っている人、バイキングで腹八分目ができる人は、みんな寄付をしていると思っていますw
では、また!
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