依存をやめることは、相手を意図的に傷付けるのをやめること
自我を意識するようになってからも、誰かを傷付けることや、支配することへの抵抗はあまりなかった。私が付けた相手の傷は、私の存在意義で、存在証明だった。
けれど、なんだか最近、傷付けたいという欲望が薄まっているのを感じる。
何故だろう。
自分の傷がようやく癒やされたのだろうか。
そもそもなぜ、相手に付けた傷の存在を感じるとき私は高揚していたのだろうか。
相手を自分の一部のように感じていたのだろうか。
…
相手からの返信が遅いのは苦手な事だった。(多分、幼少期に両親が多忙だったため電話が繋がらなかったことに起因している。)
不安になる理由が無いのに、不安になっていた。
だから、心の扱い方を学んだ。その過程で、5歳の頃の私に、今の大人になった私がコントロールされているんだと気付いた。
気付いたとき、子どもの私と大人の私が、ようやく手を繋げたと思った。自分の中にずっと居たその存在をはっきりと認知したことで、その子は今の私を受け容れてくれた。私の弱い部分を、赦してくれた。
この気付きが癒やしへのきっかけかもしれない。
この気付きを与えてくれたのは、本の些細な一行。
人への期待を諦めただけかもしれないけど、諦めるの語源って、「明らむ」=「明らかにする」なんだって。
事実を直視して、納得して思いを断ち切ると、手放したはずなのに豊かさをもたらしてくれるんだね。
仏教の教えに、
「千年の闇に閉ざされていたとしても、千年の光が必要ということではない。光が入れば闇は破れ、今ここはすぐに明るくなる。」
という話がある。(千歳の闇室)
私も誰かにとってひとすじのまっすぐな光でありたいと、今はそう思う。
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