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語学の散歩道#17 喉にいる猫

ハスキーな声の女性はセクシーだ。

子どもの頃、風邪を引いて喉を痛めるとしゃがれ声になるのが嬉しくて、風邪を引くのも悪くないと思っていた。

大人になると、さすがに分別がついて、ハスキーボイスになるために風邪を引くわけにはいかないと用心するようになった。

ハスキー犬は、ハスキーな声で鳴くのかと思っていたら、普通の声だった。


Huskyとは、そもそも乾燥した殻や鞘がカサカサ立てる音から転じたものだが、ハスキー犬の方は、どうやらエスキモー*から派生したらしい。

ハスキー犬がハスキーな声で鳴いたら、やはりセクシーだろうか。


フランス語ではハスキーボイスのことを、voix cassée 壊れた声、またはvoix rauque しゃがれ声という。

慣用句では、avoir un chat dans la gorgeと表現することもある。直訳すると、「喉に猫がいる」である。


ある日のフランス語の授業で、風邪を引いて喉を痛めた私の声に気づいた先生が、「今日のRyéはヴォワロックだね」と言われたのを、≪ voix rock ≫と聞き間違えた。

そこで、ロック歌手がハスキーな声で歌うからvoix rock なのかと尋ねたら、rockではなく、rauque だということだった。ついでに、喉に猫がいるという面白い表現も教えてもらった。


猫の鳴き声は、フランス語でmiaulerミャウレといい、猫が喉をゴロゴロさせることはronronnerロンロネという。

日本語とフランス語とではオノマトペもずいぶん異なるが、このronronner からしゃがれ声のイメージができたのかと思っていたら、そうではなかった。


上掲の記事によると、牛乳のダマ、すなわち凝乳のことをmaton と言い、それが喉に詰まりやすいことから11世紀末頃にavoir un «maton» dans la gorge という慣用表現が生まれたのだそうだ。

19世紀初めにmaton は排水口を塞ぐ毛の束などを表すようになり、maton と響きが似ていることや猫の毛玉のイメージから matou(去勢していない雄猫)に置き換えられ、avoir un «matou» dans la gorge となった。

やがてmatouはchat に換わり、現在使用されているavoir un «chat» dans la gorge という表現になったらしい。

なお、英語ではhave a frog in one’s throat と言い、喉にいるのは猫ではなくて、蛙である。

ついで言うと、イギリス人がフランス人を指していう蔑称も、frog(フランス語はgrenouille)。
その由来は知らないが、フランス語の発音、とりわけRの喉を擦るような音が蛙の鳴き声に似ていることから想起されたのかもしれない。


日本人がフランス語を話すとき、最も難しいと思われる発音が、このRの音である。フランス人いわく、うがいをする時のように喉を震わせればいいということだが、これがなかなか難しい。


さて、発音の話はこれくらいにして、面白いのは動物が登場する慣用句や日常会話である。

日本では、あの二人は「犬猿の仲」だというが、フランス語では、「犬猫の仲」と言う。

Ils sont comme chien et chat.
彼らは犬猿の仲である。
 *chien=犬、chat=猫

英語でも同じように、
They fight like cats and dogs.
と言うが、英語とフランス語では、犬と猫の順番が逆になっているのも面白い。


子供のころ『トムとジェリー』に親しんでいた私は、cats and rats という表現の方が韻を踏んでいて良いのではないかとひそかに思っていた。

ところが、ネズミには大きく二種類の単語があり、ドブネズミやクマネズミのような大型のネズミのことをrat、二十日鼠のように小さいネズミをmouse と使い分けるらしい。フランス語でも大型ネズミはrat、小さい方はsouris と言う。したがって、パソコンのマウスのことはフランス語でsourisスリと呼ぶ。

フランスでもイギリスでも、rat ドブネズミは相当の嫌われ者である。私は実際に見たことはないのだが、rat はなかなかの体躯(体長20〜30センチ)の持ち主で、かなり凶暴な性格であるらしい。こうなると猫に勝ち目はなさそうだ。どうやら、cats and ratsという表現は使えそうもない。ピエール・ルメートルの『Alex』(邦題:その女アレックス)では、木の檻に閉じ込められたアレックスという女性がネズミたちに襲われるシーンがあるが、その恐ろしさはホラーであった。


一方、昨年の干支でもあり、かわいいと評判のウサギには、こんな表現がある。

Mon petit lapin 
私のかわい子ちゃん

子供や恋人などに対して使われる愛称だが、いつでもウサギはかわいいのかというと、必ずしもそうではない。


辞書を引くと、chaud lapin や fameux lapin には「好色漢」という意味があり、vrai lapin、あるいは単にlapinという場合にも「ずる賢い(大胆な)男」の意があるらしい。
某自動車メーカーのあの車は大丈夫だろうか?



さらに、ウサギには次のような表現がある。

Il m'a posé un lapin.
彼は私にウサギをくれた。
(直訳は、「彼は私にウサギを置いた」)

フランスでは、肉屋に行くと普通の食材として因幡の白兎よろしく皮を剥がれたウサギが一兎丸ごとショーケースに陳列されている光景に出会う。友人はドン引きしていたが、一見すると鶏肉と大して変わらない。田舎では、ウサギを家畜として飼っている家庭もあるくらいだ。もちろん、ペットにウサギを飼う人たちもいる。ちなみに、野生のウサギのことはlièvre と言う。


では、先ほどの表現は「彼から食用のウサギを貰った」のかというと、そうではなくて、poser un lapin à quelqu’un には「〜との約束をすっぽかす」という意味があるのだそうだ。

したがって、前掲の「Il m'a posé un lapin」は、「彼に待ちぼうけを食らった」というのが正しい。

その由来には諸説あるようだが、19世紀後半頃、ある種の「好意」を受けた女性に報酬を与えず、そのまま支払いを踏み倒して逃げる男がおり、そこから「置いてきぼりにする、誰かを待たせる」ことを意味するようになったらしい。

ウサギは逃げ足が早い、ということか。


さて、ここで話を戻そう。
という表現にもフランス語では動物が登場する。

本題に戻るとき、フランス語では、

Alors, revenons à nos moutons!  
さて、羊に戻るとしようか!(*mouton=羊)

と言う。

その由来についてフランス人の先生たちに尋ねたところ、羊飼いたちが牧草地で出会ってひとしきりおしゃべりに興じたあと、それぞれ自分の羊のところへ戻って連れ帰るところから派生したのだろうという回答を得たのだが、どうやら15世紀の作者不詳の笑劇(farce)、『La farce de Maître Pathelin』(パトラン弁護士のファルス)を起源とするというのが通説のようである。

また、羊を使った英語表現にblack sheep 厄介者という言葉があるのは有名だが、フランス語でもmouton noir(黒い羊)と言う。


さらに、英語のscapegoat は、日本語でも「犠牲者(スケープゴート)」の意で使われているし、フランス語でもbouc émissaire と山羊を使って表現する。ただし、このboucブク という単語は雄ヤギのことを指し、チーズの名称などで使われる雌ヤギのchèvreシェーヴル とは区別される。

ところで、こちらは日常会話では卑語になるのだが、牛を使った表現に、

La vache! 畜生!(ひどいな)

という言い方がある。
vacheは雌牛(乳牛)を指すが、少し前のフランス語の授業で、France3のニュースを視聴した。


この動画によると、牛たちは通気性の良い形状記憶マットレスで日がな一日過ごし、好きなときに自由に使えるブラシで自ら毛並みを整え、通路を清掃する掃除ロボットにも驚かずに、最新技術が使われる牛舎で快適な毎日を過ごしている。首に付けられた赤いタグから飼育係のスマートフォンに体温などが適宜通知される仕組みになっており、健康管理もバッチリ。初期費用はかかるが、獣医へ支払う経済的負担は軽減されるうえ、良質な牛乳が豊富に搾乳でき、結果的に採算が合うという試験的プロジェクトらしい。

こうしてみると、これほど最先端の環境に立派に順応している牛たちに対して、蔑む表現を使うことははたして適切なのだろうかと思わず首を傾げてしまう。

牛や羊と同じ有蹄類に属するロバにいたっては、

À laver la tête d’un âne on y perd sa lessive.
ロバの頭を洗っても石けんの無駄になる。
(バカにつける薬はない。)

という諺があり、もっと直接的な言い方には、

C’est un âne. あいつはバカだ。

という表現まである。


たしか、山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』だったか、ニューヨークの動物園に「世界で最も凶暴な動物」と書かれた表示があって、覗き込むと鏡に映った自分がいた、というくだりがあった。


ともに暮らした猫たちのことを思い出すにつけても、彼らはみな冷静で、忍耐力にも観察力にも長けていた。

夏目漱石の『吾輩は猫である』の話ではないが、猫をはじめとする動物の目には、いったい人間はどのように映っているのだろうか。


少なくとも、わが家の猫たちの間では、
「人間とは、我々の下僕である」
という表現が家訓として伝わっているように思えてならない。




*エスキモー:カナダの先住民であるクリー族やオジブワ族の言葉で「生肉を食べる輩」という意味があるため、「人々」を意味する「イヌイット」が公式表現として用いられる。



<語学の散歩道>シリーズ(17)

※このシリーズの過去記事はこちら↓


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