<ロダンの庭で> 新・風姿花伝
ふと顔を上げると、山肌に鶯色や若緑色がみっしりと苔生している。
まるで三毛猫である。
雑木林を纏った山の新緑は、実に美しい。
春は、一年で最も新しいことを始めたくなる季節だ。若葉が芽吹くように、私たちの心にも何かが芽生え始める。
そして、ときには自分の能力を顧みず、何でもできそうな気になるものだ。そんなわけで、私はついあれやこれやと手を出してしまう。決して飽きっぽい性質ではないのだが、なまじ器用なため大抵のことができてしまうから困る。
多芸は無芸とはよく言ったもので、ある程度やれると、そこから先が続かない。何事にも一徹の情熱が持てず、どこを見てもその道の達人が高く聳え立っているから、山を登る気にもならない。
そもそも私は山登りが大の苦手なのだ。
第一、何のために登るのかがわからない。もちろん山頂からの眺めは素晴らしい。しかし、山は、一度登ったら下りねばならぬ。私にはどうしてもこれが解せない。やっとのことで頂上にたどり着いたというのに、今度はその道を下りなければならないのだ。なんとも虚しい話ではないか。
そんなわけで、山というのは遠くから眺めるに限る、と決め込んで、何をするにも山裾をぐるぐる回るだけで済ませている。
話は変わるが、前回話をした女性シェフに、「なぜ料理人になったのか」という月並みな質問をしたことがある。すると、彼女はこう答えた。
「これしかできませんから」
この言葉に、私は頭を拳で殴られたような衝撃を覚えたのだった。
昨今の流行りか、授賞式や表彰式で「皆様のおかげでここまで来れました」と感謝の意を捧げる場面を多く見かける。もちろん、周囲の応援や協力があってこそ手にした栄光であるには違いない。しかし、勝利を勝ち取ったのは、ほかならぬ自分自身の多大なる努力があったからではないのか。
私は、日本人が一般に美徳とする「謙遜」というものに敬意を覚えない。むしろ、自分の努力で達成できたことはもっと大っぴらに公言しても構わないのではないか、と思う。たしかに高慢や慢心はいけないが、謙遜も過ぎるとかえって興醒めするというものだ。謙虚であることは大切だが、謙遜は決して美徳ではない。
「これしかできませんから」
そう言った彼女の言葉は、裏を返せば、「これだけはできますから」という意味にも取れる。彼女の物言いには、どこか自分の実力を知っている人間の謙虚さと自負があった。
世阿弥の言葉に、「一芸は万芸に通ず」というのがあるが、一芸であろうと多芸であろうと、芸に秀でた人というのは、己の実力をよく理解しているものだ。
一方で、こんな諺もある。
能ある鷹は爪を隠す
これも美徳と思われがちな格言だが、案外違う側面もあるのではないか。
会社勤めを長くしていると、「能力」というものを正しく判断できる人が少ない、という事実に気付かされる。
ひと昔前から「人事評価」というものが取り入れられるようになったが、実際には上司の主観や感情、あるいは単なるスキルマップに照らしたレベルチェックだけで判断されていることが多いのではなかろうか。
そのため、労働者側では次第に「人事評価」に対して不信感が湧き、結果的に従業員の実態は二極化されることになる。
能力が高い社員の場合
・やればやるほど他人の仕事を押し付けられる
・黙々と仕事をするため評価に反映しづらい
能力が低い社員の場合
・高評価を得るための自己アピールを怠らない
・誹謗中傷などで他人の評判を貶める
やがて、こうした労働環境は、仕事のできる人間が「能力」を隠し、できない人間が幅を利かせるという悪循環を生み出していく。そして、「能ある鷹が爪を隠」し始めるのだ。
そんな馬鹿な話があるかと叱責を賜りそうだが、私は嫌というほどこうした現場を経験してきた。
そして、おそらくこれは、多少なりとも多くの日本企業が直面したことのある問題ではなかろうか。従業員の能力を適切に評価できない管理職と、自分の実力を客観的に把握できない従業員。「能力主義」という文化に慣れていない日本社会がぶつかって超えられない壁がここにある。
ところで、デンマークの猟兵中隊のモットーに
Plus Esse Quam Simultatur*
見た目を超える実力を持て
というのがある。
その意味するところは、「沈黙さえしていれば、自分がどんな人間であるか、見た目だけでは相手にその判断が下せない」というものである。すなわち、能ある鷹が爪を隠すのは自己防衛の一つであるといえる。
しかし、スパイ活動ならいざ知らず、本来能力が発揮されるべき環境で、「能を爪で隠す鷹」や「無能を隠して爪を出す鷹」が増殖するというのは、経済発展のうえで非常に憂慮すべきことである。
芸のあるなし、能の高低に関わらず、最も大切なのは、自分に何ができて何ができないかということを知ることではないだろうか。
何事においても、汝自身を知るというのは、自分の能力を高めるための第一歩である。
※ともすれば、私たちが当たり前だと思ってしまいがちなことにいつも疑問を投げかけ、真っ直ぐに問いかける姿勢が素晴らしいNanaoさんの記事。
<ロダンの庭で>シリーズ(5)
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