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修了作品解説論文「流されずに流されていく」 3章 表現の転換点:デジタル空間から歩行/美術

本記事は修了作品解説文の3章です。2章はこちら。

前章では、「プロ無職」という独自の肩書きを選択するまでの過程を、1990年代の新自由主義的な時代背景とともに論じてきた。本章では、その「プロ無職」としての活動、すなわちデジタルメディアを用いた情報発信を通じて直面した課題と限界について検討する。特に、表現の言語化・数値化や、アテンションエコノミーにおけるコンテンツの消費という問題は、新たな表現の可能性を模索する契機となった。この章では、デジタル空間から距離を置き、美術表現、とりわけ「歩行」という実践に至るまでの過程を論じていく。

3-1: SNS社会における数値化・言語化への危機感

「プロ無職」としての活動は一定の社会的反響を得ており、メディア運営も事業的に好調ではあったものの、次第にデジタルメディアにおける表現の本質的な限界性に直面することとなった。

メディア運営を事業として行う以上、コンテンツのページビュー数や再生数は避けて通れない指標であり、それと向き合うことは必然的にSNSプラットフォームの特性やアルゴリズムへの依存を意味した。取材で話を伺う「個人の人生」という膨大で複雑な経験は、ブログ記事では数千文字、YouTube映像では十数分程度の尺に切り取られ、効率的に伝達可能な形へと加工されることを余儀なくされる。その過程で、前後の文脈が失われ、むしろ、その失われた部分にこそ本質的な意味が含まれているという矛盾に直面した。

さらに深刻なのは、読者からのより多くの反応を獲得するために求められる表現の問題である。「バズる(注2)」ことを意識した刺激的な見出しやイメージの使用は、一種のテクニックとして確立されていた。アテンションエコノミー(注3)において、深い思考や豊かな感情の機微は単純化され、時には歪められた形で伝達されることとなる。SNSの情報の流通速度は極めて早く、たとえ一時的に大きな反響を得たとしても、1ヶ月も経てば誰も覚えていないのではないか、といった虚しさも感じていた。

【注釈】
2) インターネットやSNS上で特定の話題が急激に拡散され、多くの人の注目を集めること。
3) 情報過多の現代社会において、人々の注目や関心が経済的価値を持つという経済学の概念。日本語では「関心経済」「注意経済」とも呼ばれている。

そして自分が行っている仕事もアテンションエコノミーの一部に加担し、多様な生き方を提示するというコンセプトでありながら、逆説的には単一的な価値観を提示しているのではないかといったジレンマに陥った。事業の数字は表面的には好調でありながら、自身の生き方も含め、方向性について悩む非常に苦しい時期であった。

そしてこの時期に、美術という表現形態に関心を持ち始める。美術は確かに遅いメディアかもしれないが、100年、時には1000年という時空を超えて作品が保存・伝達されていく可能性を持つ。約5年間に及ぶメディア運営の経験を通じて抱いたデジタル空間における言語表現の限界性は、このような美術表現への関心へと繋がることとなる。美術という領域は、言語化や数値化による単純な還元を避け、事象の複雑性をそのまま提示できる可能性を持っているのではないか。それまでの人生において美術館に足を運ぶことなどなかったが、このような仮説によって、新たな表現媒体としての美術に接近していくこととなった。

3-2. 二元論を超えて—研究題目「何にも分かれないまま生きる方法」

デジタル空間における言語的表現の限界に直面する中で、数値化や言語化に還元されない新たな表現の可能性を模索するようになった。《The 100 interviews》(2020)の刊行を一区切りとし、運営していたウェブメディアでの連載やYouTubeチャンネルでのコンテンツ発信を一旦停止することを決める。

しかし、書くという行為は自分の生活の中で依然として重要な役割を担っていた。書くことはひとりになることであり、思考することでもある。しかし、これが日記といった誰にも見られることのない書き物だと独りよがりな文章になる。しかし、SNS上で不特定多数の視線を介在させてしまうと、多くの人に届けようとする意識が離れなくなる。

そこで、noteというプラットフォーム上に有料の月額マガジン「遅くて、退屈で、つまらない場所」を開設し、月に4本、マガジン購読者だけが読むことができる空間を設けた。このマガジンは2018年から現在も運営が続いており、「コンテンツをバズらせる」「テクニックによって読者を引き込む」といった意識から距離を置いた、私的なエッセイのようなものを書いている。こうした空間を運営することは、職業病からのリハビリテーションと、書くことによって内省へ向かうメディテーションのような機能を果たしている。

そして同時期、仏教、とりわけ禅への関心を深め、関連書籍を読みながら、寺社での参禅体験や瞑想を始める。特に同郷の思想家である鈴木大拙と西田幾多郎への関心から、2020年から活動拠点を金沢へと移し、地元で生活をしながら、なぜこの地から二人の思想家が生まれたのかを探りたいと考えた。

大拙らが説く東洋的な一元論的世界観は、Facebook、Instagram、Twitter(現X)といった欧米発のSNSプラットフォームが前提とする二元論的思考と対照的である。これらのプラットフォームは、その構造においてデカルト以来の西洋的認識論、すなわち認識する主体と認識される客体を分離する世界観のデジタル空間における再生産とも言える。数字が伸びるほど自我が肥大化していく感覚や、何かを言葉で規定し発信することが、さらなる分断を加速化させ、それに自分も加担しているかもしれないという感覚は、SNSプラットフォームが内包するシステム的な特性が原因だったのではないかと考える。本論では趣旨と逸れるため仏教、禅、大拙と西田幾多郎に関する深い論考は避けるが、自分が日本人であるということと、文化・言語・宗教によって異なる主客の認識方法を有するということは、後のフランス留学でも自覚することになり、表現の根底にあると考えている。

こうした仮説と自身の経験を照らし合わせ、研究題目を「何にも分かれないまま生きる方法」と設定し、先端芸術表現科の修士課程へ進学した。 

3-3: 歩行がもたらす統合:身体・思考・世界の再接続

前節で述べたプラットフォーム社会における二元論的思考に対する疑念と、新たな表現を模索する中で、「歩行」という行為に着目し、修士課程では研究と実践を行ってきた。その契機となったのはレベッカ・ソルニットの著書『ウォークス 歩くことの精神史』である。

歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながらも、それらに煩わされることから解放される。

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』東辻賢治郎訳、左右社(2017)p.14

いま多くの人は、バラバラになった屋内空間、家、車、ジム、オフィス、店のなかで生きているけれど、徒歩ではすべてが連続的だ。歩く人は、内部空間に滞在するのと同じように空間の隙間にも滞在する。世界を隔絶して構築された空間の内部ではなく、世界の全体に生きているのだ。(p.20)
(引用-4)

同上  p.20

このようなソルニットの指摘は、歩行が単なる移動手段を超えた世界との関わり方を象徴する行為であることを示している。

歩行と思考の関係性については、多くの思想家・哲学者が語っている。フリードリヒ・ニーチェは毎日6〜7時間歩きながら思考を重ね、ジャン=ジャック・ルソーは『告白』の中で「わたしが集中できるのは歩いているときだけだ。立ち止まると考えは止まる。わたしの精神は足をともなうときにだけ働くようだ。」と述べている。アリストテレスらの逍遙学派に由来する英語のperipateticが「常によく歩きまわる者」を意味することからも、歩行が意識的・文化的な行為として位置づけられてきたことがわかる。

また、歩行は巡礼的な意味も持っている。日本では四国遍路、海外だとフランス-スペインを結ぶサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が有名である。数日あるいは数ヶ月かけて、徒歩のみで巡礼路を辿る人々が世界中から集まっていることから、歩くことには不思議な力があると考える。

この文脈において、ノルウェーの作家トマス・エスペダルの『歩くこと、または飼い慣らされずに詩的な人生を生きる術』は非常に興味深い。本作は「歩くこと、作家として生きること、愛、芸術、詩、自然について、紀行、自伝、エッセイ、手紙、日記といった複数のジャンルの境界線を徒歩旅行するかのように自由かつ軽やかに行き来しながら書かれた、新しく実験的で独創的な小説(引用-5)」である。

エスペダルの著作に見られる歩行の軌跡は、「日常生活からの離脱」と「創造的活動の復権」という二重の意味を持っている。作者は結婚生活、田舎暮らし、執筆活動の停滞という安定した生活の中で自己を見失っていたが、恋人との別れを契機に放浪者としての新たな生を選択する。ベルゲンの中心部からベルゲン北部のオーサネに続く古い郵便道路、そして西ノルウェーのフィヨルド沿岸を進んでいく彼の歩行は、外的世界への探索であると同時に、内的世界への探求でもあった。歩くことは自分自身とふたりきりになることであり、自己と対話することである。この歩行による旅は、最終的にエスペダル本人の「書くこと」への主体的な回帰をもたらしている。そして、エスペダルはなぜ自分が車や電車などの交通手段でなく、敢えて歩くという選択をしてきたか、ということについてこう述べている。

自分が子どもの頃から促され、指図されるのとは、正反対の生き方をしたいと願ってきたこと、定職に一度も就かず、家も家族も手放し、定収入も入らない作家という仕事を選び、常に自分自身にとってとにかく困難な道を選択してきたことに気が付く。

トマス・エスペダル『歩くこと、または飼い慣らされずに詩的な人生を生きる術』枇谷 玲子訳、河出書房新社(2023)p.239

エスペダルは自身の歩行という選択が、社会に「飼い慣らされること」への抵抗としての意味を持っていたことを理解したのだった。この「飼い慣らされない」という言葉は、ヘンリー・デイヴット・ソローの提唱する「野生(的なもの)」(the wild)の概念と共鳴する。ソローは著書『Walking』においてこう述べている。

野生のカモが飼い慣らされたカモよりも敏捷で美しいのとおなじように、ふりしきる露のさなか、沼地の上を飛翔する野生的な――マガモ的な――思考は、まことに敏捷で美しい。
(引用-6)

齋藤直子『ソローのWalkingと生き方としての哲学』ユリイカ2024年6月号 特集=わたしたちの散歩、青土社(2024)p.27

ソローは著作『ウォールデン 森の生活』において「私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに向き合い、人生が教えねばならぬものを自分が学ぶことができないかどうかを見極めたかったからであり、死ぬ時になって、自分が生きてはいなかったことを発見できないかどうかを見極めたかったからである。(引用-7)」と語っており、森での生活を通して「野生(the wild)」を取り戻そうとしたからではないかと考える。さらにソローは「そぞろ歩き(sauntering)」という行為を挙げながら、歩行の持つ超越的な側面を提示する。 教育学者・哲学者の齋藤直子によると

そぞろ歩きする人(Saunterer)の語源は中世に遡り、聖地(la Sainte Terre)に行くという口実で施しを乞う放浪者を意味する。しかしながらソローは、「実際に聖地に行く人」(p. 71)を、よき意味での"Saunterer"と呼び、その語源を"sans terre"、すなわち、「土地や家がない」という関連句に辿る。それは道の途上にある(on the way)ことをも含意する。よき意味でのSauntererは、「決まった我が家をもたないが、同様に、どこに居ても我が家にある」ような人々である(p.72)。


ここでソローが言う「実際に聖地に行く人」とは、特別な宗教者を意味するものではない。それは、誰もが日々経験しうる可能性に開かれた、地に足をつけた超越経験である。聖地に行くために、人は家を出なければならない。Walkingは決別と出立に始まる。(7)
(引用-8)

同上 p.1, pp.8-9

このように歩行は、身近で日常的でありながら、世界との直接的な関わりや主体性を回復する行為として位置づけられる。私たちは歩くことで単に空間を移動するだけでなく、その過程で周囲の環境と相互作用し、自己と世界の関係を絶えず再構築している。それは分裂した身体と思考を再び結びつけることでもある。例えば、頭ではやりたくないと考えている仕事があったとしても、身体はそれに従事しなければいけない、という分裂は、誰もが日常的に経験しているだろう。しかし、自らの意思と足取りによって歩みを進めているあいだ、私たちの身体と思考は有機的に結びつき、主体的な関わり合いを取り戻すことができる。これは現代社会における実践としての可能性を示唆している。

3-4. パリという都市と「漂流」の系譜:シチュアシオニストの実践から現代へ

こうした「歩行」をアートプラクティスや美術史の文脈において捉えると、1960年代以降の現代美術において多くの実践的試みが展開されてきた。例えば、イギリスのリチャード・ロングや、同じセントラル・セント・マーチンズで学んだハミッシュ・フルトンは、歩く行為そのものを創造的実践として提示したアーティストとして知られている。その後、フランシス・アリスやミーシャ・ラインカフなど、歩行を抵抗や政治的意味を持つラディカルな実践として捉え、あるいは詩的な物語を紡ぎ出す行為として扱うアーティストが現れた。

しかし、歩行それ自体を芸術的実践として捉える試みは19世紀半ばまで遡る。1863年、シャルル・ボードレールは『現代生活の画家』において「フラヌール」(遊歩者)という概念を提示した。都市を目的なしに歩き、空間や人をただ眺める文化的現象として注目されるようになったこの概念は、後にヴァルター・ベンヤミンによって『パサージュ論』で理論的に展開される。1920年代には、アンドレ・ブルトンが創始者となったシュルレアリストによって、現実認識に対する実験的アプローチとしてフラヌールは再解釈されていく。

このように、パリは歩行者たちの創造性を育んできた豊かな歴史を持つ。都市計画の分野でも「ウォーカブルシティ(注4)」の文脈でパリは注目されている。

【注釈】
4) 自動車を使用せずに歩いて移動できる(バスなど公共交通機関の利用を含む)街のこと。さらにパリ市は「15分都市(歩いて15分、自転車なら5分ほどの圏内で暮らせる生活環境)」を目指している。

自動車の速度は30km以下に制限され、自転車専用レーンが設けられることによって、歩行者の空間が確保されている。こうした都市構造の背景には、フランスの革命の歴史が深く関係している。レベッカ・ソルニットは、パリという街が持つ革命の歴史と、歩行空間の確保によって民衆がどのような言語的優位性を用いるかについて言及している。

大いなる歩行者の街パリは偉大な革命の街でもある。これらはしばしばまるで無関係であるかのように言及されている事柄だが、そこには本質的な連関がある。歴史家エリック・ホブスボウムが「暴動と反乱に理想的な都市」について考察した結論によれば、そこには次のような要件がある。”人口が密集しており、それほどひろくない範囲に収まっていなければならない。基本的に、いまでも徒歩による横断が可能でなければならないのだ。・・・・・そのことによって、反乱に適した都市の中心部では諸権力ー富裕層、貴族、政体もしくは地方政府ーと貧民層が可能な限り混ざり合っている状態になることだろう。”

あらゆる革命都市は古風な街だ。そこでは意味と歴史と記憶を吸い込んだ石やコンクリートによって、あらゆる行為が過去と反響しながら未来をつくりだしてゆく、そんなひとつの劇場がつくり上げられている。そして事物の中心にはいまなお力の所在を見出すことができる。住人たちが基本的な地理を把握し、自情をもって移動することのできる歩行者の街。そのすべてがあてはまるパリは一七八九年、一八三〇年、一八四八年、一八七一年、そして一九六八年に大規模な革命や暴動を経験し、近年も無数の抗議行動やストライキの舞台となっている。
(引用-9)

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』東辻賢治郎訳、左右社(2017)p.368

こうした考えはフランスの歴史家、哲学者であるミシェル・ド・セルトーの思考と結びつく。ド・セルトーは著書『日常的実践のポイエティーク』の中で、都市は歩くためにつくられたものであり、歩行者は「都市を実践する者」であると述べる。

かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書きつづっている都市という「テクスト」の活字の太さ細さに沿って動いてゆく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。

けれどもこの歩行者は、それらをずらしたり、別のものをつくりあげてみたりもする。というのも、いわば歩行者の際遊でもあり即興でもある横道は、いろいろな空間要素のなかでも、とくにどれかひとつに愛着をしめしたり、勝手に変えてしまったり、かと思えば見捨てて放っておいたりするからだ。
(引用-10)

ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、筑摩書房(2021)p.236

都市はひとつの言語であり、可能性の貯蔵庫であって、歩くことはその言語を発話し、可能性から選択肢を行なうことである。まさに言語が語りうることを局限するように、建築は歩行を局限するが、歩く者は異なる道筋を創案する。さらにド・セルトーは、通行人と歩いて行き違うことから生じる一連の転進や迂回は、「言い回し」や「文体のあや」に相当すると述べている。まさに、都市を歩くことそれ自体が、ひとつの戦術である。

チャーリー・チャップリンはこうして自分のステッキの可能性をさまざまにひろげてみせる。かれは同じものを別のものにつくりかえてしまうのであり、事物の定義によって定められるその用法の限界をとりはらってしまうのだ。おなじように歩行者も、空間のシニフィアンのひとつひとつを別のものに変えてしまう。そしてまたこの歩行者は、一方で既成秩序の定めた可能性のうちそのいくつかだけしか実効化しないし(ここには足を運んでも、あちらには行かない)、また他方で可能性の数をふやしたり(たとえば近道やまわり道をしたりしながら)、禁止の数をふやしたりする(たとえば、合法的ないし義務的にきめられた道は歩かないようにして)。つまりかれは選んでいるのだ。「都市の使用者は発話の断片をひろい集め、ひそかにそれを活用している。」
(引用-11)

同上 p.247

実際に、1968年の五月革命に直接的な影響を与えたのが、1950年代から70年代にかけて活動したシチュアシオニスト・インターナショナルである。シチュアシオニスト・インターナショナルはフランスの思想家・映画監督であるギー・ドゥボールを中心に結成された。ドゥボールはシュルレアリストたちの「超現実的」な手法を、社会への間接的なアプローチに過ぎないと批判し、自身たちの活動を芸術的文脈に置かず、より直接的な社会批評の実践を展開していく。 ドゥボールは著書『スペクタクルの社会』において、マスメディアによって一方的に情報を受信するだけの「観客」となり、生活のすべてが表象としてしか存在しなくなった社会を「スペクタクル」と呼び、大量生産と大量消費の時代における人々の受動性を批判した。また、一方でその支配に抗う実践を模索したのである。そして、スペクタクルから放たれた日常的な生を「状況」と呼んだ。

1955年、ドゥボールは「サイコジオグラフィー(心理地理学)」という概念を提示する。これは「意識的に作られたにせよ、そうでにないにせよ、個人の感情的な行動に直接作用する地理的環境の厳密な効果の分析(引用-12)」と定義され、都市環境の認識の再考を目的としていた。「パリの心理的地理の地図」(1955年)では、様々なコミュニティにおける心理的関係性や行動・移動パターンを反映し、パリを多数の島からなる群島として描き出すことで、既存の地理的認識を解体し、新たな空間認識の可能性を示唆した。


Fig.5 ギー・ドゥボール《心理的なパリ・ガイド:愛の情熱についての論考。人は漂流しつつ心理地理的にどこを志向するか、それぞれの場所に特有の雰囲気について》(1955)

シチュアシオニストはこの理論的枠組みのもと、「漂流(デリーヴ)」を展開した。これはシュルレアリストの「目的なき無意識の散策」とは一線を画しており、「都市社会の状態と関連する実験的な行動のあり方、つまり多様な雰囲気の中を迅速に抜ける技術」と定義されている。漂流の目的は、心理地理学の効果を認識し、古典的な旅や散策とは異なる遊び的で建設的な行動を強調することにある。(引用-13)

この実践は、現代社会においても有効であると考える。かつて私自身、表現・発信の場としてSNSプラットフォームに関わる中で、「スペクタクル」の誕生を目の当たりにし、またそれに関与してきた。個人の経験が商品コンテンツとして扱われ、アルゴリズムによって最適化された形で消費者の元に提供され、消費されていく。この状況は、ドゥボールが警鐘を鳴らした事態がより先鋭化された形で実現されているとも言える。このような状況において、シチュアシオニストによる「心理地理学」と「漂流」の実践は、情報や他者の物語による支配から逃れ、自らの身体を通じて世界と向き合う方法としての意義を持つ。それは、デジタル技術やSNSがもたらす表象イメージの洪水の中で、なお私たちが主体的に世界と関わる可能性を示唆している。

パリはこうした歩行による創造的・批判的実践の出発地であり、豊かな歴史を持つ。そうした理由から、私は交換留学先としてパリ国立高等美術学校を選び、2023年から1年間、パリ市内を実際に歩きながら研究と制作を行った。3章では、美術表現に至る経緯として、デジタルメディアにおける表現の限界性、二元論からの解放、そして歩行という実践の可能性について論じてきた。続く第4章では、これらの理論的背景を踏まえつつ、修了作品「流されずに流されていく」を構成する4つの作品について詳細な分析と先行作品との接続を行う。

4章はこちら。

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