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修了作品解説論文「流されずに流されていく」 2章 美術制作以前:新自由主義の時代における『プロ無職』という肩書きの選択

本記事は修了作品解説文の2章です。1章はこちら。

本章では、私が美術制作を始める以前の活動と、その時代背景について論じる。2015年から2020年頃にかけて、私は「プロ無職」という肩書きを名乗り、世界各地を移動しながら働く人々を取材し、オウンドメディアやYouTubeで情報発信を行ってきた。この活動は、表現メディアこそ異なるものの、現在の制作活動の根幹となる思考を形成している。本章では、私の生い立ちや時代背景を辿りながら、なぜ「プロ無職」という特異な肩書きを名乗るに至ったのか、その経緯と社会的文脈を検証する。

2章 美術制作以前:新自由主義の時代における『プロ無職』という肩書きの選択
2-1:労働を通じた自己実現:『やりたいこと』の職業化
2-2:表現との出会い:インターネットとBBOYING
2-3:初の海外生活:越境経験による価値観の変容 
2-4:オウンドメディアブームと「好きなことで生きていく」 
2-5:「プロ無職」の実践:労働観の変容する時代における一つの応答

2-1. 労働を通じた自己実現:『やりたいこと』の職業化

私は1991年に石川県の金沢市に生まれ、高校を卒業するまで同市にて育った。北陸三県は有効求人倍率が全国的にも高く、福祉・教育・医療制度も充実しており、民営家賃平均も安いことから、生活水準の高さは各種統計でも示されている。私もごく一般的な中流階級の家庭に生まれ、何不自由なく過ごした。この土地で生活した記憶は美しいものばかりであるが、この安定した環境と強烈な原体験の欠如からか、夢や特別にやりたいことなどを持っていなかった。当時の石川県は北陸新幹線開通以前で東京はまだ遠い存在であり、故郷は嫌いではないが、「早くここではないどこかに行きたい」という気持だけは漠然と抱いていた。そうしたこともあってか、小学4年時の「将来の夢」を書く授業で、「旅士」という独自の職業を作って発表したことを覚えている。

2003年に、村上龍著書の『13歳のハローワーク』が発売されベストセラーとなったが、我が家でも例にも漏れずこの本を親から渡された。514種の職業が記載されており、百科事典のように分厚いページをいくらめくっても「旅士」という職業はどこにもないどころか、なりたい職業がひとつもなかったことに当時絶望したことを覚えている。同書の「はじめに」では、このようなことが書かれている。

子どもが、好きな学問やスポーツや技術などをできるだけ早い時期に選ぶことができれば、その子どもにはアドバンテージ(有利性)が生まれます。

(引用-1) 村上龍『13歳のハローワーク』幻冬舎(2003)p.3

同書が2000年代初頭にベストセラーとなった背景について、文芸評論家の三宅香帆は著書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中で以下のように指摘している。

このような思想は、2000年代におこなわれたゆとり教育にも反映されている。岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』は、サッチャー政権やレーガン政権が採用した新自由主義改革にならおうとした結果、規制緩和の理念から「ゆとり改革」を採用してしまったという流れを解説する。つまり1990年代から徐々に社会へ浸透していた新自由主義的な思想が、教育現場にも流れ込み、「個性を重視せよ」「個々人の発信力を伸ばそう」という思想に基づいた教育がなされるようになった。

また90年代後半、すでに「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア教育は取り入れられ始めていた。労働市場が崩れ始めた90年代後半から、「夢」を追いかけろと煽るメディアが氾濫するようになる(荒川葉『「夢追い」型進路形成の功罪―高校改革の社会学』)。実際、学生が想像できる「夢」、つまり楽しそうな進路は「服飾・家政」や「文化・教養」など就職率の低い領域であることも多かった。しかしそういったリスクを伝えず、高校のキャリア教育は夢を追いかけることを推奨した。つまり90年代後半から00年代にかけて、日本の教育は「好きなこと」「やりたいこと」に沿った選択学習、進路形成を推奨する教育がなされることになった。結果として「やりたいことが見つからない」若者や、あるいは「やりたいことが見つかっていても、リスクの高い進路を選んでしまう」若者が増えていったのだと荒川は指摘する(同前)。このような風潮が、自分の「好き」を重視する仕事を選ぶことを良しとする『13歳のハローワーク』のベストセラー化につながったのだろう。(引用-2)

(引用-2)三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社(2024)pp.146-147

「好きを活かした仕事をしよう」という思想の背景には、90年代から00年代に日本にもやってきた新自由主義改革の流れがあり、『13歳のハローワーク』のベストセラーは必然性を持ったものであると考える。また、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中で、以前には学歴のない人々は本を読み、カルチャーセンターに通うことで「教養」を高め、自分の階級を上げる動きもあったが、新自由主義改革のもとではじまった教育によって、私たちは教養ではなく「労働」によって、その自己実現を図るべきだという思想を与えられるようになってしまったと述べている。

私も1991年に生まれたミレニアル世代(注1)であり、「失われた30年」と呼ばれる平成初期に生まれた。日本経済が盛り上がっていた頃を知らず、ゆとり教育を受けて育った。小学校でパソコンを扱う授業が始まり、インターネットが家庭に普及し始めた時期であるが、当時はまだインターネットを活用した働き方など想像できなかった。こうした時代の変わり目に育った経験は、後の「プロ無職」という独自の立場の選択へと結びついていく。その詳細は2-5で後述する。 

【注釈】
1)1980年代前半から1990年代半ばまでに生まれ、デジタル技術やインターネットの発展とともに成長した世代。

2-2. 表現との出会い:インターネットとBBOYING

高校生になると、周りが「甲子園出場を目指す」だとか、「将来は料理人になる」といった夢や目標を見つけていく中で、自分は明確にやりたいことを見つけられないことに不安を抱いていた。様々な趣味的活動に手を出してみるものの、いずれも継続的な取り組みには至らず、むしろ自己嫌悪を強める結果となった。しかし、そうした試行錯誤を続ける中で現在も継続しており、且つ表現活動の基盤となる趣味と出会うことになった。一つはブログ(文章執筆)、もう一つはブレイクダンス(BBOYING)である。前者については、2004年頃から社会現象となった『電車男』を契機に、「2ちゃんねる」をはじめとするテキストベースのコミュニケーションプラットフォームが一般化する中で、私も中学生のころからインターネットを通じて知らない人との匿名でのコミュニケーションを楽しんでいた。その後、「mixi」や「前略プロフィール」といった初期のソーシャルネットワーキングサービスが普及し、そこで日々の出来事を綴るようになった。同級生や見知らぬ人から「面白い」、「笑った」といった反応をもらえることが純粋に楽しく、文章を書くことがより身近な表現活動として定着していった
 
17歳から始めたBBOYINGは、私の現在の制作活動の重要な要素を形成していると考える。関西大学在学中、BBOYINGへの熱中は更に深まり、4年時にはその発祥の地であるニューヨークに7ヶ月間留学した。BBOYINGの特徴は、バットやボールといった特別な道具を必要とせず、自分の身体だけでいつでもどこでも表現できることにある。今の私の制作スタイルも、特別な道具や素材は使わず、身体や身近なものだけで作品を制作しているが、これはBBOYINGでの経験が大きく影響している。また、BBOYINGにおけるダンスバトルの形式は、即興性を特に重要視する。既習の動きを単に再現するだけでは評価に繋がらず、対戦相手の技をその場で返したり、DJの音楽に合わせて即時的に踊ることが非常に重要になる。この経験も、移動した先々で起きる予想外の出来事に対して即興で応答する姿勢に繋がっていると考える。
運良く二つの趣味的活動を高校生の時に見つけることができたが、しかし当時はそれを仕事にしようなどと全く考えておらず、引き続き、将来の具体的な職業や夢といったものは見つけられないでいた。

2-3. 初の海外生活:越境経験による価値観の変容 

2013年、22歳での初めての海外渡航となったニューヨーク留学は、私の価値観形成に非常に大きな影響を与えた。幼少期から具体的にやりたいことがなく、「旅士」という独自の職業を思い描き、「ここではないどこか」への漠然とした憧憬を抱きながらも、実際の海外渡航は比較的遅い時期となっている。「人種のるつぼ」と形容されるほど多様な人種と文化が共存している大都市ニューヨークでの生活は、22年間日本という単一言語・単一文化の環境で育った私にとって、価値観を根本から揺さぶるものであった。


渡航当初まともに英語を話すことができなかったが、アメリカ国内の様々な大会に参加する中で、BBOYINGを通じた非言語コミュニケーションによって、世界中の人々と交流できた経験は、自信に繋がったと考える。
生活面においても、価値観を転覆させる経験が続いた。当時のオバマ政権下では比較的寛容な移民政策の影響からか、不法滞在者の存在が身近だった。メキシコから非正規の手段で入国したルームメイトや、日本人でも、10年以上日本に帰らずニューヨークに不法滞在しているという人に出会うことは珍しくなかった。こうした出会いは、日本で生活していると中々経験することがない。
 
そして最も大きな変化は、それまで無意識のうちに内面化していた「こうあらねばならない」といった社会的規範や他者からの視線による行動様式からの解放だったと考える。初めて日本を飛び出し、言語や文化が異なる海外で生活する経験は、既存の価値体系や社会的期待から距離を置き、より自律的な生き方を模索するようになった。
こうした越境体験は、後のパフォーマンス作品、特に《スマホ1台旅》に代表される国境を越える身体パフォーマンス作品の根幹となっている。作品の詳細な分析については第4章で論じるが、この時期の経験が、私にとって「移動」と「越境」の持つ可能性について問い直す契機となった。

Fig.3 山口塁《スマホ1台旅 (Traveling with one smartphone)》(2017-)

2-4. オウンドメディアブームと「好きなことで生きていく」 

ニューヨーク留学を経て、これまで無意識に内面化していた社会的規範や他者からの視線による行動の抑圧から距離を置く生き方を志向するようになったが、BBOYINGを職業にすることを考えたことは一度もなかった。現在では、BBOYINGのオリンピック競技化やDリーグの設立によってプロとして活動できる場が増え、SNSを活用した活動も一般的となっているが、2014年当時はそうした環境は整っておらず、またプレイヤーとして活動することに限界を感じていた。
関西大学卒業後、3年以内に辞めることを決めて、アパレルメーカーの営業職に就職している。平日は就業しながら、どのような仕事で自己実現をしたいのか模索する中で、高校時代から親しんでいた「文章を書くこと」に再度注目することとなった。
2015年当時はバイラルメディアや、「デイリーポータルZ」「サイボウズ式」「オモコロ」といった企業運営のオウンドメディアが台頭し、オウンドメディアブームと呼ばれていた。また、多くのSNSフォロワーを持つ「読モライター」や、イケダハヤト・はあちゅうに代表されるブロガーが社会的注目を集めていた。さらに2014年にはYouTubeがCMキャンペーンで「好きなことで生きていく」というタグラインを発表し、SNSを通じた表現活動の職業化が現実味を帯びていた。
中学生の頃からテキストサイトに親しみ、ネット上に文章を書くことの楽しさを知っていた私は、時代の流れもあって自分達のメディアを立ち上げることにした。最初に友人と立ち上げたのは、2015年当時、日本で流行し始めていたAirbnbや民泊に関するメディアだった。早い段階で波に乗ることができ、「好きなことで生きていく」ことを決意。翌年アパレルメーカーを退職して独立した。同時に個人のメディアも立ち上げ、その際に選択した肩書きが「プロ無職」である。幼少期から特定の職業や具体的なキャリアビジョンを持つことができなかった経験を逆手に取り、「無職のプロ」を自称することにした。既存の職業によって自己のアイデンティティを規定することを放棄し、何者でもないならば、何者でもないことを武器にするということ。何者でもないということは、何者にもなれる無限の可能性を有している。「無職」の「無」は「無限」の「無」である。そんな「無職」が「有職者」にインタビューを行うというコンセプトで、すでに好きなことを仕事にしている人々へ取材し、発信する活動を展開していった。

 2-5. 「プロ無職」の実践:労働観の変容する時代における一つの応答
 
2016年から「プロ無職」を名乗り、同名のWebメディアを立ち上げ、すでに好きなことを仕事として確立している人々への取材活動を開始した。いかにしてその仕事をするに至ったのか、自身の人生や原体験について話を伺い、3-4000文字のブログコンテンツ、または、10-20分程度のYouTube動画に編集し、発信を行った。取材人数が100名を超えたタイミングでZINEを制作してまとめている。

Fig.4 山口塁《The 100 interviews》(2020)

こうした取材活動は、『13歳のハローワーク』を読んでもなりたい職業を見つけられなかった小学生の時の経験から、既存の職業ではない、今の時代にあった多様な働き方を実践する人々を取材・発信することで、かつての自分のような夢や目標を見つけられないでいる若い世代に選択肢を与えることを試みた。

この活動は時代と合致し、SNSでのフォロワー数は数万人に達し、2018年には「AbemaTV」や「新R25を」はじめとする各種メディアでの露出が増加した時期であった。

「プロ無職」というワードが広く受容された背景には、当時の日本社会における労働観へのカウンターとしての性格があったと考える。2013年に「ブラック企業」が流行語大賞に選出され、2015年には電通での過労死自殺事件が社会問題として大きく取り上げられた。

この出来事は、日本の伝統的な労働観や企業文化に対する根本的な問い直しを促し、後の「働き方改革」へと繋がっていく契機となった。労働市場の変容は、若者の就労意識にも大きな影響を与えていた。終身雇用制度の崩壊や非正規雇用の増加により、特にミレニアル世代にとって、親世代が経験した安定的な雇用形態はすでに過去のものとして認識されていたと考える。そうした中、前章で述べたように、新自由主義の台頭とSNSの普及は「好きなことで生きていく」という新しい働き方の価値観を提示することとなった。フリーランスやノマドワーカーといった組織に属さない働き方の選択肢が増え、副業も流行。「個の時代」と呼ばれた。

この傾向は、働き方改革を経てますます強くなる。つまり会社で終身雇用に頼るのではなく、好きなことや自己実現を果たせることで、個として市場価値のある人間になるべきだ、というメッセージが日本社会に発信されたのだ。自分の意志を持て。グローバル化社会のなかでうまく市場の波を乗りこなせ。ブラック企業に搾取されるな。投資をしろ。自分の老後資金は自分で稼げ。集団に頼るな。――それこそが働き方改革と引き換えに私たちが受け取ったメッセージだった。

(引用-3) 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社(2024)p.170

「プロ無職」という肩書きは、満員電車での出勤、長時間労働、残業などといった従来の日本の労働観に対するアンチテーゼのようなメッセージとして機能し、特に若い世代の共感を得ることとなったと分析している。

本章では、私の幼少期の原体験から、現在の制作の根幹となっている文章執筆やBBOYING,越境体験を経て「プロ無職」としての活動に至る過程と時代背景を論じてきた。
続く第3章では、この活動を通じて直面した言語表現の限界性とジレンマが、美術表現への関心と「歩行」という実践へ展開していく過程を論じる。

3章はこちら。

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