見出し画像

5次元、最高次元 64次元、霊性、スピリチュアル

一切の否定と肯定すらも在無(不二一元) /在無無限(不二三元)の循環であり、全を肯定し知り在ることは大吾"己"を愛する技である。

正邪では無く、◉善が残る仕組み😌永遠の知覚から無時間、無空間的知覚でなければなし得ない技となる。

大吾を知愛さないものは、永遠程の知覚の循環より陰を学び、消えて往き真愛されないのも己からの道"理"



次元

次元とは英語でDimension"ダイメンション"。ラテン語でDi"ダイ"とは2つ、Mension"メンション"は量りである。

ダイメンションとは二つの側面となる☯️。陰陽的であり内外、外内的、表裏、裏表的でもある。

1次元的知覚

一次元的知覚は、内の我と外の他より知覚している状態である。

一次元的知覚のみだと利己的になりやすく、それは自己中心的である。また一次元の仕組みは複数の自己構造の基本的基を成す。


2次元的知覚


二次元的知覚は、陰陽的、火と水的、表裏的である。

二つの側面が和合、解離する仕組みはこの二次元的または極性的知覚の共鳴、衝突によって生じるエネルギーである。

またこの2つ生じるエネルギーは多次元的に循環する仕組みによりカルマ的循環を成す。

カルマ

カルマとは存在することであり、音であり、内的思考行動、外的体現的行動により成される。

カルマに善悪のみを知覚することに二元的囚われが生じる。

陰陽の神髄は人間的コンセプトまたは概念に囚われていては分かり得ないが、概念は未熟にとっては全体を和スための段階的戒律として機能する。

カルマとは先に支払う、現在で支払う、そして後で支払う循環と取引である。

受け入れと手放し

二次元的知覚の成長プロセスそしてエネルギー循環の学びには、受け入れと手放しが重要である。

個性とは多角的側面を生じる。役割があり、世界が廻る循環である。

人は自身の知覚領域からしか知覚し得ない。それ故に自己の中で起こっている現象を他人に投影するからであり、受け入れと手放しは嘘や欺瞞すらも受け流す極意となる。

騙したいものには騙されてやってもいいくらいの広く太い心である。ありのままを受け入れて流す廻す、流転することで偽も真実性も明るみになるだろう。決めつけない知覚は大切である。


3次元的知覚


三次元的知覚は二次元的知覚より極性のエネルギーを内で融和する技となる。

赤+青=紫的であり、陰陽和合の技でもある。此処に男女、陰陽などの極性と和合が顕現しているありのままでもある。

2つの側面がぶつかり合わず、広くを視合うことで、三つ目の知覚が生じるためである。

またその三つ目の知覚は客観的であり、広い空間を認識し得る。


4次元的知覚

四次元的知覚は、縦横高の三次元空間的自身と過去、現在、未来の三次元時間的自身と対応する。

この認識は四次元的知覚であり、自と他の領域を時間的空間的に識別、認識するための仕組みである。

縦の陰陽和合と統合

四次元的知覚の極意は縦の陰陽和合である。

これらは横への統合を知覚し得るが縦への自己と途方も無い知覚認識の相互を理解し無いところに四次元的段階として顕現し得る。

俗に言うハイヤーセルフ"高次元自身"もまた他の視点からロウワーセルフ"低次元自身"であることを知覚し得無いところに未熟として顕現しやすい。

認識のシフト

神髄は高低はあるが、無い。

それは5次元的知覚より高次元的知覚を捉える神髄であり、5次元もまたその役割と位置を知覚するところに歓喜弥栄成長を成す。

四次元的知覚はアストラル的でもあり、三次元的時間、空間に囚われることの無い自身を学ぶ技でもある。

このように認識のシフトが統合のために起こることを次元のシフトとも知覚され得る。

5次元的知覚

五次元的知覚は三次元的時間、空間の三つの領域から知覚する主観的自身"四次元的自身"とその三つの外的領域+四つ目の主観的領域自身"四次元自身"と統合された客観的かつ内的自身が共存しており、一部であり全体的知覚である。

三つの重なり対応する円の中にある自身が、客観的かつ内的自身であるが、主観的自身"四次元的自身"を内とした場合に四次元的となり、客観的かつ内的自身が内とした場合に五次元的自身が顕現され、

四次元的自身は外からの対応と知覚され得る。神髄は常に内に重層的に統合されているが、縁、円のように重なり合う対応であう。⚛️原子の真中的知覚である。

自身の横に水筒があり、屋根があり、空気があり、万物全てを己とする知覚である。

森羅万象的自身、全体であり個を知覚するその知覚より役割、自己(全体)の統合認識を理解している状態である。

違いをネガティブでは無く成長への個性、ユニーク性としてニュートラルまたは、それゆえに全体的ポジティブ、陽的統合を成すための技である。

真実と幻影のベール


真実とは人間的智のみによるものではない。

幾何学、数、それら森羅万象的または全体的かつ認識知覚的対応から成される顕現であり、それすらを超越する知覚的技となる。

幻影のベールとは成長過程による状態により起こる段階を分割そして独自性による知覚である。


6次元的知覚

四次元的知覚を個性の統合段階(離と愛)、

五次元的知覚は(無善悪)と対応するなら、

六次元的はその両方の知覚が共存しており、また五次元に段階を生じなら六次元的知覚にはその段階すらも生じ得無い。

完全的であるが完全で無いところに超完成、宇宙的かつ歓喜弥栄の神秘性を体現する知覚である。

六次元的には四元素、火風地水そして陰陽を加えた四元素として体現するなら五次元は火風空地水である。

空を◯、陰陽を☯️とするように五次元はある域の統合状態である。◯を無または無極とし、☯️を極性または極力とする。


六次元はその統合状態に無善悪、ある域でのニュートラリティー、ゼロポイントフィールド的知覚からさらに力を生じさせる技となる。

六次元性と宇宙

六次元は宇宙の神髄を極めるそして真似ている段階とも言える。

6+4=十であるように、数秘術的であることも対応である。これは〇一二三四五六七八九十の対応であり、⓪から十を極める神髄としても対応する。

地球の星的紋


64次元、最高次元的知覚

64次元は創造神ブラフマー、アナンタ"無限"と対応する。

8×8=64であるように、宇宙の存続期間の終わり、カルパに残るものナーガ(蛇🐍♾️)との対応である。

ビシュヌ神の栄光を謳う象徴でもある。64次元的知覚は0であり、十であり、それゆえに全ての次元を零、無限そして無無限として纏める知覚と技である。

ヨーガとはただカジュアルな服を着る、ポーズをするのみでは無いだろう。繋げを意するからである。

この次元域では個であり森羅万象的かつ力を生じる故に自然または神的和合を内で知覚するのみならず、中間領域に顕現する。

それは人間の発する自己主張や私は〇〇〇の神だといった四次元的または低級的顕現では無く、世界がそのものを語る。


誕生日であり、生まれた場所、刻、場所、そしてそれらが共存する要因と、そのものと世界は無空間、無時間的に対応している顕現を成す。

気づくものは気づき、気づかないものはそれを知覚し得無い。


その力とは個人のみの状況に依らないが、個人は森羅万象的であるが故に世界の状況と対応した顕現をしているからである。


次元と重層とは

次元と重層は繋がりあい非なる知覚である。次元を無と一なる🌐とするなら、重層は重なりあう層である様に知覚される。

一つの次元の中に重層は存在し得る、また次元が重なりあうのも重層である。

Density-Layer Densityデンシティーは密度でたり、Layerレイヤーは層である。これを重層とする。密度もまた繋がりあい、非なる知覚であり、次元も密度も重層も知覚によっては同的に感じられる。

四次元的かつ上級的仙人

四次元に無善悪を知覚し得ないそして戒律を知覚するのなら、それは幽界的仙人としての存在となる。仙人的天神"人"には戒律は存在し無い。

それ故に8重層かつ4次元の仙人的在り方もあり得るが、それはさらに高次元からは悪くなる必要は無い。

仙人的在り方は古来より地と天を繋ぎ、霊界的在り方を投影する様にあるだろう。

全体の成長は途方もない領域または界に対応するからである。

仙人的天神"人"

仙人的天神"人"には戒律という戒律は存在し無い。

それ故に戒律なく存在への義務無き、強制無き義務が存在するからであり、森羅万象的知覚故に無無限的存在を可能とし得る。

幽界的仙人は仙人的天神"人"の低級的在り方というには語弊を招くが語弊になる必要も無い。親と子のような関係性であり、そうでも無い。

一なる木、基、キと複数の種のようなものであるも言えるだろう。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集