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"ふつう"から遠く離れても

先日、35回目の誕生日を迎えることができました。

子どものころは、35歳って、"立派な大人"なのだと思っていましたが、実際にその年齢に達してみると全然そんなことはなくて、まだまだ右往左往することの多い日々です。

というよりも、この年齢になるまで自分が生きていることに対して、びっくりしています。

子どもの頃は、生きるのって苦しいことが多いから、そんなに長生きしたくないなぁ、なんて思っていました。
徒然草の第七段にある、"長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて〜"という一節に共感したのが、たしか小学校五年生ぐらいのとき。
ちょっとその年齢にしては厭世的すぎるよ。って、書いていて自分でも苦笑してしまうのですが、十代の頃は、ほんとうに人と関わるのが苦手で、そのことでだいぶ思いつめていました。

成績だけは良かったので、教室の中でのポジションは一応あったのですが、それでもやっぱり孤立しがちだったし、みんなと同じことがふつうにできない、という悩みを学校に通っている間、ずっと抱いていたのですよね。
"当たり前のことをふつうに"できるようになりたかったのに、それが全然できなくて。
世界のどこにも自分の居場所はなくて、だからはやくいなくなってしまいたい、という気持ちも強かったです。


学校に行けなかったり、働けなかったりした期間はあったものの、今は正社員として勤務しています。
ふりかえってみれば、この勤務形態で働けるようになったのも、たった六年前のこと。
昔ほど、人と自分を比較して悩むことは少なくなったのですが、職場でのちょっとした雑談に心が揺れてしまうようなことは、今でもあります。

たとえば、わたしには今、友達と呼べる人がいません。
最後に友達と遊んだのは、中学生のとき。
高校では、新しい友達をつくる間もなく、学校に行けなくなってしまい、その後は引越しを繰り返したので、なかなか深い人間関係を築いてこれませんでした。
自分と人との間に境界線をひいて、その線の中に人を立ち入らせないようなところがあったのも、事実です。
過去の経験を正直に話すのも、いまだに難しいのですよね。

でも、最近はさすがに、他愛ないことを気軽に話せるような人がいればなぁ、と思うこともしばしば。
少しずつで良いので、人と関わる機会を増やせていけたら、なんて考えてもいます。
(noteのコメントを通してたくさんの方と交流ができているのは、だから、わたしにとってかけがえのない経験です)

この年齢だと、家庭を持って、子育てをされている方も
多いのですが、それもわたしには手が届かないなぁ。

過去にお付き合いをしていた方はいますが、あるとき、
母からそういったお付き合いをすることを禁止されました。
母はわたしを失うことが怖くて、ずっとそばにいてほしいと願っていて、そして、わたしはそれを受け容れて生きていくことにしたのです。
あと、わたしには婦人科系の持病があるので、子どもをうむことは難しいかな、という状況でもあります。


はたから見たら、なんて寂しい人生なのだと思われそうですし、昔のわたしなら、なんでふつうに生きられないのだろう、と悩みそう。
でも今は、自分の人生を評価するのは自分だけで良い、
と思っているので、わりと大丈夫です。


人それぞれ生き方は違うけれど、そのなかにも最大公約数的な枠はあって、それがいわゆる"ふつう"とか"一般的"とか、"正解"とか呼ばれる生き方なのでしょう。
その枠内におさまりたい、という気持ちがすべて無くなったわけではないのですが、無理にその中におさまろうとしなくてもいいのかなって、今は思っています。
おさまろうにも、自分にはあまりにも遠すぎて、開き直ってしまったというか…、すべての人がその中におさまらなくても良いのでは?とも思うので。
自分らしい在り方で歩んでいくことが、大事なのではないかな、って。


それに、年齢を重ねるにつれて居心地は良くなっています。自分が身を置く環境を自らの手で選べるようになった、というのも大きいですし、好きな作品・好きな場所・好きな食べものも、年々増えていくばかりだから。
楽しいな、素敵だな、と感じることも多くなっていますしね。

今は読書がいちばんの趣味ですが、子どもの頃にやめてしまったいくつかの習いごとの中で、ふたたびチャレンジしてみたいこともあります。(一番は、ピアノかなぁ)

幼い頃に思い描いていたとおりの未来では全くないけれど(むしろ予想外のことの連続!)、それでも良いよね。
そんなふうに肯定しながら、日々を過ごしていけたらと思っているのです。


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夏樹
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️

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