見出し画像

それは香り高い紅茶のような。贅沢なことばを味わうひととき。

ガラスのティーポットの中で、ふんわりと紅茶の茶葉がほどけ、ゆらぎながら広がっていくのをながめます。

ポットから注がれる、ほのかに紅を帯びた金色の細い流れがカップを満たしていき、豊かな香りが空気を染めていくのを楽しみつつ椅子に腰をおろせば、お茶の時間のはじまり。

お菓子は、フィナンシェを。
ひとくち食べると焦がしバターの香ばしさが口いっぱいに広がり、アーモンドの風味も共鳴する。
ほっと息をついて紅茶を口にふくめば、やわらかな渋さが、口に残る甘さと油分をさらりと流していくのです。

さて、おいしいお茶とお菓子のおともに読みたくなるのが、森茉莉のエッセイ集「貧乏サヴァラン」。


表紙の桃のイラストも好きです。

森鷗外の長女である森茉莉は、自他ともに認める"食いしん坊"。「貧乏サヴァラン」は、彼女が書いたエッセイの中から食べものにまつわるお話を中心に編まれた一冊。食にかける並々ならぬこだわりが満ちあふれていて、読んでいると豊かな気持ちになる本です。


文章そのものが、上質な素材でつくられた、とびきり美しいお菓子のよう。
気品のある色合いのクッキー缶を開けて、すきまなく詰められた端正なかたちの焼き菓子をひとつずつ取り出してはじっくりと味わうようにして、輝きと香気をまとうことばを目で追っていきます。

想い出のお菓子。それは静かな明治の色の中に沈んでいる紅白、透徹すきとおった薄緑、黄色、半透明の曇ったような桜色、なぞの有平糖あるへいとうの花菓子。
大きな真紅あかい牡丹。淡紅の桜の花、尖端さきが紅い桜の蕾、緑やあかね色を帯びた橄欖オリーブ色の葉。薄茶色の木の枝には肉桂の味がした。紅白で花のように結ばれた、元結いの形のも、あった。

「貧乏サヴァラン」"お菓子の話"より

光を帯びた有平糖の色合いと、てのひらに乗せたときのかろやかさが感じられる文章を読みながら、その色彩の重なりの中に、上村松園の絵画の色をふと思い起こしました。
彼女が幼い日に目に映した光景が、そのままの鮮やかさでわたしの中に浮かびあがり、そのお菓子を前に高揚する気持ちまでが、胸の中に移ってくるような。

美味しいもののことを、ただ美味しいと語るだけではないところが、彼女の文章の味わいの秘密なのかもしれません。
お菓子について書かれた文章の中でも特にわたしが好きなのは、ビスケットについて記された次の一節です。

ビスケットには固さと、軽さと、適度の薄さが、絶対に必要であって、また、嚙むとカッチリ固いくせに脆く、細かな、雲母状の粉が散って、胸や膝にこぼれるようでなくてはならない。そうして、味は、上等の粉の味の中に、牛乳ミルク牛酪バタの香いが仄かに漂わなくてはいけない。また彫刻のように彫られている羅馬ローマ字や、ポツポツの穴が、規則正しく整然と並んでいて、いささかの乱れもなく、ポツポツの穴は深く、綺麗に、カッキリ開いていなくてはならないのである。この条件の中のどれ一つ欠けていても、言語道断であって、ビスケットと言われる資格はない。

「貧乏サヴァラン」"ビスケット"より

ビスケットについて、これほどのことばを尽くして語る人を、他に知りません。
自分が好きなものに対する、このこだわりの強さ。
ともすれば食に関するこだわりは、わがままとも受け取られるものですが、森茉莉の場合はそのこだわりの中に、美意識という強靭な芯が通っているように感じられます。
それゆえに、文章は多彩な色に縁取られ、豊かな香りさえも帯びている。

わたしは、それがたとえ人から理解されないとしても、わたしが美しい、そして美味しいと思うものを、心から愛している。
美味しいものを作ること、味わうこと。そして、美しいものにふれるのは楽しいことで、その楽しさがひいては生きることの楽しさにつながるのだ。

この本を読んでいて明るい心持ちになるのは、全編を通して、そんな茉莉さんの思いが響いてくるからなのでしょう。

ここで茉莉さん、と親しげに名前を呼んでしまうのは、美味しいもの、美しいものを求めて苦心惨憺する様子が、ときにユーモラスで、読んでいて思わず微笑んでしまうから。
自分が好きなものを前にして、きらきらと眸を輝かせている顔がとなりにあるような、いきいきとした声で語られる、おしゃべりに耳を傾けているような。
その文章にふれていると、彼女の存在を身近に感じるのです。

本から目を離してテーブルの上を見ると、ティーポットとカップ、空になったデザート皿があります。

ポットの中には、紅茶がまだ残っている。
フィナンシェ、もうひとつ食べる?どうしようかな。

迷っているわたしを、テーブル越しに、茉莉さんが面白そうに眺めている気がします。

"こんな午後の時間が、贅沢なときなのですよね"
心の中で彼女に語りかければ、表紙の桃の色が、わずかに深みを増したように思われるのでした。




いいなと思ったら応援しよう!

夏樹
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️

この記事が参加している募集