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当たり前を俯瞰して見てみよう① 「学校教材の学習ドリルって本当に意味あるの?」
こんにちは。かんガエル先生です🐸
私は、小学校現場に携わる機会が多いのだが、度々「当たり前」に疑問を持つことがあります。
例えば、宿題の算数ドリルの丸付けを手伝っているとき。
きちんと問題を解き、丸つけをし、中には直しまでしている子がいる反面、
問題が解けず、あるいは問題を解かずに、答えを写して終わってしまっていたり、中には丸つけもせずやりっぱなしになっている子もいるのもしばしば。
そして、何としても、大抵、前者のような子どもたちは学力的に優秀で身につけるべきことがある程度身についていて、後者のような子どもたちは学習進捗が遅れがちで手助けがより必要な子であったりすることが多いのです。
だからこそ、思う。
「学校教材の学習ドリルって本当に意味あるの?」って。
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◉学習ドリルの恐るべき負の連鎖
もちろん、授業で習ったことのアウトプットをし、確かな学びとする点が、学習ドリルの良さでもあります。
しかし、ただでさえ授業で基礎事項が理解しきれていないのにドリル学習をしても、
「解けない・分からない→答えを写す→分かった気になる→さらに解けない・分からない→・・・」
の負の連鎖に陥るのではないかと不安に思ってしまう。
算数なら尚更ですよね。
けれども、学習の定着度がどうであれ、問題を最後まで解き、丸付けまでしている子のノートに「OK」と記してしまう自分がいるのです。
任された業務であるとはいえ、何とも言い難い気持ちに・・・
でも、それが学校現場の現実なのでは?
先生は確かに忙しい。だって、宿題の算数ドリルを一つだけ切り抜いても
子どもがきちんと問題を解いているか、丸付けをしているか、いや、正しく丸付けをしているかをみて、コメントをして・・・
そりゃ忙しくなると思うわけです。
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◉教師に求められる裁量とは
これからは、学びの個別最適化が求められる時代。
各学校で様々な研究や研修が進められ、学校によっては児童主体⇔教師主体の授業と、早々差ができてしまっているのかもしれません。
授業でも、分かる子だけで進める授業では、もう遅い。
いかに、一人ひとりの学びに寄り添い、時に友だちと「学び合える」ような題材を設定するか
それが教員に求められる裁量の一つでもあると思います。
では、どのような学びが考えられるか。
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◉これからの授業とは
例えば、基礎事項を身につけるために、子どもたちにとってよりオーセンティックな「共有課題」をまず提示する。その後、タブレット等で個別のレベルにあった学習で基礎基本をある程度身につけ、最後に、できる子もできない子もともに学び合える「ジャンプ課題」を提示する。
こうした学びは、佐藤学の言葉を借りると「学びの共同体」ともいえます。そして、それは今まであまり学習に意欲的ではなかった子どもが一番食いつきが良く、生き生きと学ぶ姿勢が見られるようになったということなんです。
これからの時代に求められる学びを展開していくには、もしかしたら第一は
教員の意識変革が一番重要になってくるのかもしれない。
そのように、私は思うわけです。
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写真: 六甲山(兵庫県)ロックガーデンより
最後までお読みいただきありがとうございました🌈