太平記 現代語訳 15-3 園城寺、戦場となる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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奥州からの朝廷側援軍が坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着した後に、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義貞(にったよしさだ)他、朝廷軍の主要メンバーらは、聖女彼岸所(しょうにょひがんしょ)に集まって作戦会議を開いた。

北畠顕家 ここはとにかく、一日、二日ほど、馬の足を休めてから、京都へ向かう、という事にしてはどないやろ?

大館氏明(おおたちうじあきら) えぇっとぉ・・・少し意見を言わせていただいてもよろしいでしょうか?・・・長旅に疲れた馬をまる1日も休ませてしまうと、かえって緊張がゆるんでしまってね、4、5日ほど、役に立たなくなってしまいますよ。

メンバー全員 ・・・。

大館氏明 我々が坂本へ来たことを、敵が知ったとしても、「到着した後すぐに、京都へ押し寄せて来るなんてことは、まさかないだろう」と、敵側は思っているでしょうね。

大館氏明 「敵の不意をついて戦を起こすべし、さすれば必ず、勝利できるであろう」と、言いますからね。今夜のうちに、志賀(しが:滋賀県・大津市)、唐崎(からさき:滋賀県・大津市)のあたりまで進み、翌朝未明に、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)へ押し寄せ、四方からトキの声を上げて攻め入るってぇセンで、どうでしょう? そうすりゃ、こちらサイドの勝利、間違い無しですよ。

新田義貞 なるほど!

楠正成(くすのきまさしげ) その作戦、えぇやん、それで行こぉな!

ということで、諸将に指示が出た。

新参の千葉(ちば)家の軍勢は、指示に従い、宵のうちから千余騎で、志賀の里に陣取った。

大館氏明、額田(ぬかだ)、羽川(はねかわ)6,000余騎は、夜半に坂本を発って、唐崎浜(からさきはま)に陣取った。

戸津(とつ:大津市)、比叡辻(ひえいつじ:大津市)、和仁(わに:大津市)、堅田(かたた:大津市)の者らは、小舟700余隻に乗って琵琶湖沖に待機しながら、夜明けを待った。

延暦寺(えんりゃくじ:大津市)の衆徒たち2万余人は、ほとんどのメンバーが徒歩であったので、回り道して如意が嶽への山道を越え、戦闘開始のトキの声が上がると同時に山から攻め下ろうと、なりをひそめて待機した。

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坂本に大軍勢が到着した気配をキャッチし、多数の舟が琵琶湖上を行き来する様を見て、園城寺に待機していた細川定禅(ほそかわじょうぜん)と高重茂(こうのしげもち)は、京都へ急を告げた。

 「関東からの朝廷側の大援軍が坂本に到着し、明日にでも、我々に攻撃をしかけてくる、との情報を得ました。急ぎ、援軍を、お願いします!」

このように、三度も使者を送って援軍を依頼したが、足利尊氏は、まったく意に介さない。

足利尊氏 関東から大援軍だってぇ? いったいどこの誰が、それほどの大軍を率いて、京都までやってこれるっていうのかね。その大半は、宇都宮家と紀清両党の者らだと、聞いてるぞぉ。

足利尊氏 彼らが、その後の情勢の変化を知らないまま、坂本へ到着したとしてもだな、宇都宮公綱はすでにこちらサイドに所属、京都にいるって聞いたら、すぐに、主のもとへ馳せ散じてくるだろうよ。

というわけで、園城寺へは、足利側の援軍は一騎も派遣されなかった。

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夜明けとともに、北畠顕家率いる2万余騎、新田義貞率いる3万余騎、脇屋義助(わきやよしすけ)、堀口(ほりぐち)、額田(ぬかだ)、鳥山(とりやま)の軍勢1万5千余騎は、志賀、唐崎の浜辺に馬を進めて園城寺へ押し寄せ、後続軍の到着を待った。

やがて、戦闘開始。

まず、朝廷軍の前陣が、大津の西の浦、松本の宿に火をかけて、トキの声を上げた。

準備怠りなかった園城寺の衆徒らは、園城寺南院の坂口で彼らを迎撃し、激しく矢を浴びせた。

朝廷軍一番手・千葉高胤(ちばたかたね)が率いる1,000余騎は園城寺に押し寄せ、一番木戸、二番木戸と順に破って寺の中に切り込んでいき、三方からの足利軍の攻撃を受け続けながらも1時間ほど戦い続けた。

ところが、千葉軍は、横方向から攻め懸かってきた細川定禅(ほそかわじょうぜん)率いる四国勢6,000余騎に包囲されてしまった。そして、千葉高胤がついに討たれてしまい、その部下300余騎は、目前の敵を討たんと、駆け入り駆け入り戦ったが、150騎が討たれてしまい、戦闘を後陣に譲って退却。

朝廷軍二番手は、北畠顕家率いる2万余騎。メンバーを入れ替え、敵と入り乱れながら、奮戦。

北畠軍がひとしきり戦闘を行ってから馬の足を休めている間に、三番手の結城宗広(ゆうきむねひろ)、伊達(だて:福島県・伊達郡)、信夫(しのぶ:福島県・福島市)の勢力ら5,000余騎が、北畠軍に入れ替わり、敵に後ろを見せずに果敢に攻め戦う。

やがて、300余騎が討たれて、彼らは退却。それに乗じた細川軍は、6万余騎を二手に分けて、琵琶湖岸方面に進んでいく。

これを見た新田義貞は、3万余騎を一つに合わせて、強力な細川軍を撃破しにかかった。

細川軍は大軍勢とはいえ、北の方は、大津の家々が焼けているまっ最中なので通れない、東の方には琵琶湖があり、水深が深いのでそちらから回り込むのも不可能、わずか半町足らずの幅の細道を、順に列をなして進んでいくしかない。湖上からは、舟を浮かべて待ち構えていた和仁、堅田の者らが、矢を浴びせてくる。細川軍はついに、進退ままならない状態に陥ってしまった。

勢いづいた朝廷軍は、かさにかかって攻めたてた。

細川軍6万余騎は、500余騎を討たれ、園城寺へ退却。

額田、堀口、江田、大館ら700余騎が、逃げ行く細川軍に追いすがり、そのまま、寺の中までなだれ込んでいかんばかりの勢い。園城寺の衆徒500余人が、木戸の前に立ちふさがって命を捨てて闘い、それを阻む。

この抵抗にあって、朝廷軍は堀の際で100余人が討たれ、後続の軍勢をひたすら待つのみ、一歩も前進できなくなってしまった。その間に、衆徒らは木戸を閉ざし、堀の橋を引き上げてしまった。

これを見た脇屋義助は、大声で、

脇屋義助 まったくもう、フガイネェやつらだなぁ! あんな木戸たった一枚に止められちゃってぇ、これっぽっちの小さい拠点も攻め落とせんとはぁ! おぉい、栗生(くりふ)はいねぇのか! 篠塚(しのつか)はいねぇのか! さっさとあの木戸を、引き破っちまえぃ! 畑(はた)と亘理(わたり)は、どこにいるぅ! とっとと切り込めぇ!

これを聞いた、栗生左衛門(くりふさえもん)と、篠塚伊賀守(しのつかいがのかみ)は、馬から飛び降り、木戸を引き破ろうと、寺の塀めがけて走り寄った。

塀の前には深さ2丈ほどの堀があり、その両岸は、屏風を立てたように切り立っている。堀の上の橋板はみなはがされて、橋桁だけが残っている。いったいどうやって堀を超えたものかと、左右を鋭く見まわす二人。

栗生左衛門 おい、あれ見ろよ、あそこの塚の上に、大きな卒塔婆(そとば)が2本立ってるだろ? あれ、橋のかわりに使えねぇかな?

篠塚伊賀守 字を書いてある部分は3丈ほど、全長は5、6丈ほどってとこかぁ?

栗生左衛門 橋に使うには、もってこいだぜ。

篠塚伊賀守 卒塔婆を立つるも、橋を渡すも、その功徳は同じだろうて。

栗生左衛門 わはは、うめぇこと言いやがるな。よぉし、あれを引っこ抜いて橋にして、堀、渡ろうや。

二人は塚に走りより、卒塔婆を小脇に挟んで、エイヤッと引き抜いた。土中に5、6尺ほど堀って入れた大木だったので、周囲の土が1、2尺ほど崩れたが、卒塔婆は難なく抜けた。

二人は、二本の卒塔婆を軽々とかついで堀の端まで運び、そこに卒塔婆を突き立てながら、大見得を切ってみせる。

栗生左衛門 中国には、烏獲(おうかく)、樊噲(はんかい)、我が国には、和泉小次郎(いずみのこじろう)、浅井那三郎(あさいなさぶろう)、いずれも、並外れた大力のもんだったとかいうけんどよぉ、そいつらと、おれらでは、もう比べもんにもなんねぇんだよなぁ。

篠塚伊賀守 おれらの方が、はるかにパワフルなんだよぉ。

栗生左衛門 あれあれ、あいつら、口から出まかせ言いやがってぇ、なんてぇ、思ってる人間、そっちサイドにいるようだなぁ。

篠塚伊賀守 だったら、今から勝負して、ホントかウソか、確かめてみたら、いいんじゃぁねぇのぉ!

栗生と篠塚は、二本の卒塔婆を並べて、向かい岸へ倒し懸けた。卒塔婆の表面は平らになっており、二本並べてみると、あたかも四条、五条の橋のごとくである。

その側で一部始終を見ていた畑時能(はたときよし)と亘理新左衛門(わたりしんざえもん)が、栗生と篠塚に戯れて言わく、

畑時能 橋渡し担当の、栗生殿と篠塚殿、お役目ご苦労さま!

亘理新左衛門 戦の方は、わたしらにおまかせあれ。

畑と亘理は、卒塔婆の上をサラサラと走って堀を渡り、向う岸に設置されていた逆茂木を取り除き、木戸の脇に走り寄った。

木戸を守っている細川軍メンバーは、三方の狭間から槍や長刀を差し出して、二人を激しく突いたが、亘理は、それらの武器を16本も奪い取って、捨ててしまった。それを見た畑が叫ぶ、

畑時能 おい、亘理、そこをのけ! その塀、引き破って、味方の連中を戦いやすくしてやろう!

時能は、木戸の側に走りより、右足を振り上げて木戸の閂(かんぬき)のあたりを、2度、3度と蹴った。

木戸の閂 グワシッ、グワシッ、ビシビシビシ、グワシッ、メリメリメリメリ・・・。

時能の強烈な蹴りの前には、閂も無力。2本差してあった8、9寸ほどの閂の木が中ほどより折れ、木戸の扉もろとも、塀が一斉にドドッと倒れてしまい、木戸を守っていた500余人は、一斉に四方に退散。

かくして、一の木戸がついに破られた。

新田軍3万余騎は、寺の中に懸け入り、まず、合図の火の手を上げた。

これを見た延暦寺の衆徒2万余人は、如意が嶽越えの道から下山して新田軍に合流し、園城寺域内の谷々へ乱入し、堂舎仏閣に火を掛け、おめき叫んで攻めかかる。

猛火が東西より吹き掛かり、敵が南北に充満するのを見て、「もはやこれまで」と観念した園城寺の衆徒たちは、あるいは金堂に走り入って猛火の中に腹を切って伏し、あるいは経文を抱いて谷間を逃げながら転倒する。

その場所に長年住んでいる者でさえ、時には道に迷うもの、ましてや、園城寺にやって来たばかりの四国・中国方面からの細川軍メンバーらは、方角も分からず、煙にまかれて見とおしもきかないまま、ただただ迷うばかり、ここかしこの木の下、岩の陰に倒れ伏して、自害するしかない。

かくして、この半日ほどの合戦で、大津、松本、園城寺内での足利サイドの戦死者の数は、7,300余人となった。

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園城寺の金堂に安置の本尊・[生身の弥勒菩薩]を、何とかしなければ、という事で、園城寺のある衆徒が、その仏像から頭部だけを切り取り、薮の中に隠し置いた。ところがどうしたわけか、戦いの後、その仏像の頭が、討たれた武士たちの首に混じって置かれていた。

その仏像頭部の首の切れ目に血がついていたのだが、おそらくは延暦寺の者のしわざであろう、その側に札が立てられ、下記のような一首の和歌と詞書(ことばがき)きが書かれた。

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建武(けんむ)3年の春のころ、何となく世間が騒がしいので、自分が衆生を救済すべき時がついに来たのであろう、さっそく人間世界に降り立ち、成道(じょうどう)してブッダ(仏)となり、衆生救済の説法を開始せねば、と思い、園城寺の金堂の中へやってきた。

ところが、周囲には業火(ごうか)が盛んに燃え、修羅の闘諍(しゅらのとうじょう)の声が四方に響いているではないか。

これはいったい何事かと、さっぱりわけも分からずにいる所に、仏地坊(ぶっちぼう)の某とやらが堂内に走り入ってきて、なんと、ノコギリでもって、我が首を切りはじめるではないか! いったいなんで、自分がこんな事をされなければならないのか!

「阿逸多(アイッタ)!」と叫んだのだが(注1)、どうにも、その行為を止めることができない。

耐えかねる悲しみの中に、思いつづった歌一首、

 わが敵は 山法師(やまほうし)やと 思ぉてたが 寺法師(てらほうし)に首 切られるとはなぁ

(原文)山(やま)を我(わが) 敵とはいかで 思いけん 寺法師にぞ 頸(くび)を切(きら)るる(注2)
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(訳者注1)弥勒菩薩の別名。

(訳者注2)「山法師」は延暦寺の僧兵、「寺法師」は園城寺の僧兵を指している。
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以前に寺が炎上した時に、園城寺の衆徒が大事な物として秘匿した寺の鐘・九乳の鳧鐘(きゅうにゅうのふしょう)は、今回はそれに心を向ける者が無かったので、空しく焼けて地に落ちてしまった。

この鐘は、その昔、竜宮城から伝えられたという宝物なのである。

承平(しょうへい)年間に、俵藤太・藤原秀郷(たわらとうた・ふじわらのひでさと:注3)という人がいた。

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(訳者注3)歴史上実在の人である。
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ある時、秀郷は一人で瀬田(せた)の橋(滋賀県・大津市)を渡ろうとした。

ところが、橋の上に、長さ20丈ほどの大蛇が横たわっている。両の眼は輝いて、天に太陽を2個かけたがごとく、頭上に並んだ角は、冬枯れの森の梢のように尖(するど)い。鋼鉄の牙が上下に生え違い、紅の舌は炎を吐くがごとくである。

常人であれば、これを見て、目もくれ魂も消え入り、すぐに地上に倒れてしまうであろう。しかし、秀郷は、天下第一の大剛(だいごう)の人であったから、全く動ずることもなく、その大蛇の背中の上を荒らかに踏み、静かにその上を超えて橋を渡っていった。

大蛇は全く驚きもせず、秀郷も後ろを振り返らないまま、先に進んで行った。

橋から遠い所まで来た時、みずぼらしい感じの一人の小男が忽然と、秀郷の前に現れた。

男 なぁ、あんた。わしが、あそこの橋の下に住み始めてから、2000年余りになるんやけどな、橋を行き来するいろんな人を見てきたけど、あんたほどの剛のお人は、初めてや。

藤原秀郷 ・・・。

男 実はなぁ、わしには、土地をめぐって争い続けてきた長年の仇がおってなぁ、そいつに、さんざん悩まされてるんやわ。あんたが、そいつをやっつけてくれたら、ほんま、嬉しいなぁと思うんやけど、どうやろか?

秀郷は即座に、

藤原秀郷 よし、わかった。やっつけてやるぜぃ。

男 やったぁ!

秀郷は、男を先に歩かせて、瀬田の方へ引き返した。男は、秀郷を琵琶湖の湖水の中へ導いた。

波をわけて湖上を進むこと50余町、やがて一つの楼門が見えてきた。それを開いて中へ入ると、内部には瑠璃(るり)の砂厚く敷かれ、玉の石畳暖かく、落花が乱れ散っている。朱楼紫殿に玉の欄干、金の軒飾りに銀の柱。いまだかつて目にも耳にもしたことがないような壮観奇麗。

男は、その殿内に入るやいなや、あっという間に衣冠を正し、秀郷を客席に案内した。男の左右には護衛の者らが、前後には花のように美しく着飾った美女が並び、美麗を極めた様である。

酒宴に入って数時間が経過し、夜も更けてきた頃、みなが騒ぎはじめた。

メンバーA いよいよ、敵が押しよせてくる時刻になりましたぁ!

メンバー一同 わぁ、大変、さぁ、大変、わぁわぁわぁわぁ・・・。

秀郷は、身から放さずに持っている5人張の弓に弦をかけて、口で湿らし、長さ15束2伏の矢を3本、用意した。その矢は、生えてから3年たった節の間隔の短い竹から作られたもので、鏃の心棒が筈本まで打ち通しになっている。

秀郷は、敵の来襲を、今か今かと待ち構えた。

夜半を過ぎた頃に、風雨が強まり、稲妻がひっきりなしに、光りはじめた。

そして、比良山(ひらさん)の方から、松明2、3千本を左右2列に従えた、島のように巨大な何物かが、接近してきた。その姿をよく見てみると、2列の松明はみな、怪物の左右の手の上にある。

怪物 ウィーンウィーン、キシキシキシキシ、ウィーンウィーン、キシキシキシキシ・・・。

藤原秀郷 (内心)あれは、百足(むかで)の化け物だなぁ。よぉし、十分に引き付けてから、この矢で・・・。

怪物 グィーングィーン、ギャシギャシギャシギャシ、グィーングィーン、ギャシギャシギャシギャシ・・・。

藤原秀郷 (内心)もっとこっちまで来い、それ、もうちょっと、もうちょっと。(弓を引きしぼりながら)

弓 ギリギリギリ・・・。

怪物 ギャワーンギャワーン、ギョシギョシギョシギョシ、ギャワーンギャワーン、ギョシギョシギョシギョシ・・・。

藤原秀郷 (怪物の眉間のド真ん中を狙って)エヤァ!

弓 ビュン!

矢 ヒューーー、カキーン!

怪物 グワーングワーン、ギャリギャリギャリギャリ、グワーングワーン、ギャリギャリギャリギャリ・・・。

鋼鉄に対して射たかのように、矢は、はねかえされてしまった。

藤原秀郷 えぇい、もう! よぉし、二本目の矢を受けて見ろぃ!エェイ!(1本目で狙ったのと同じ所をめがけて、矢を射る)

弓 ビュン!

矢 ヒューーー、カキーン!

またもや、矢は、はねかえされてしまった!

藤原秀郷 (内心)2本失敗、残るは1本。どうすりゃいい? ウーン・・・よぉし!

秀郷は、3本目の矢の先にツバを吐き掛けてから、

藤原秀郷 エヤァ!(2本目で狙ったのと同じ所をめがけて、矢を射る)

弓 ビュイン!

矢 ヒュゥーーーーーン・・・ズブァァッック!

3本目の矢に毒を塗ってあったからであろうか、あるいは、同じ所を3度射たからであろうか、この矢は、怪物の眉間の真ん中に突き刺さり、矢羽根が喉の下から見えるほどにまで、怪物の頭部を額から喉まで貫通した。

怪物 ドドドドガァーーーン!

2、 3千本燃えていた松明の光はたちまち消え、島のような巨体が倒れる音が大地に響きわたった。

秀郷は、怪物の側へ寄って観察した。

藤原秀郷 思った通り、巨大百足だったな。

これを見て、例の男は大喜び。秀郷をさまざまに手厚くもてなした上、太刀一振、巻絹一織、鎧一領、首を結わえた米俵一つ、赤銅(しゃくどう)の撞鐘(つきがね)1口を、秀郷に贈っていわく、

男 あなたの子孫の中から、将軍位に就く人が大勢出れるように、今後、私がとりはからいましょう。

京都に帰還の後、秀郷が、男からの贈り物を調べてみると、不思議不思議、幾ら切り取って使っても、尽きることがない巻絹、いくら取り出しても中味が一向に減らない米俵。

というわけで、秀郷の家は財宝に満ち、衣装は身に余るほどになった。ゆえに、彼は人々から、「俵藤太」と呼ばれるようになったのである。

藤原秀郷 (内心)この巻絹と米俵は、財を産んでくれる宝だからな、蔵の中に大事にしまっとこう。

藤原秀郷 (内心)で、鐘は・・・鐘はやっぱし、お寺にある方がいいだろう。

というわけで、鐘は園城寺に寄進された。それが、「九乳の鳧鐘」なのである。

文保(ぶんぽう)2年に園城寺が炎上した時、延暦寺の衆徒がこの鐘を奪い取り、比叡山に持っていってしまった。

彼らは朝夕、それをついてみたが、鐘は全く鳴らない。

延暦寺衆徒B うんともすんとも鳴らんやないかいな、この鐘はぁ。

延暦寺衆徒C なんというても、園城寺にあった鐘やからなぁ、イジでも、比叡山の中では鳴ったるもんかいっちゅう事やろか。

延暦寺衆徒D なにぃ!

延暦寺衆徒E よぁし、そっちがそういうツモリやったら、こっちかてゼッタイに引き下がらへんでぇ。なんとしてでも、鳴らしてみせたるわい!

延暦寺の衆徒らもイジになり、巨大な撞木(しゅもく)を作って、2、30人がかりで、割れよとばかりに、この鐘をついてみた。

鐘はついに鳴った、鯨の吠えるような音で!

鐘 ミィデラェィクーーーーン・・・。(注4)

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(訳者注4)三井寺(みいでら)は、園城寺の別称。
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延暦寺衆徒B にっくたらしい鐘やぁ!

延暦寺衆徒C こんな鐘、壊してしまおうや!

彼らは、無動寺の上からこの鐘を落とした。高さ数千丈の岩山を転げ落ちていくうちに、この鐘はミジンに砕け散ってしまった。

延暦寺衆徒D こないなったらこの鐘、もう何の役にも立たへん、破片集めて園城寺に返してしまおうや。

延暦寺衆徒一同 異議なし!

鐘の破片が園城寺に帰ってきてから後のある時、1尺ほどの小蛇が出てきて、尻尾でこの破片を叩いた。

その翌朝、見ると、破片が合わさって元の鐘になっていた。傷の跡など全く見当たらない。

かくして、この鐘は今に至るまで、園城寺にあり、その音を聞く人の心中には、無明の世界に生きる衆生をお救いくださる弥勒菩薩の出現を待ち望む念が、フツフツと沸き上がるのだという。まさに、末世のこの世における一大不可思議、奇特の鐘と言うべきではないか。

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