太平記 現代語訳 13-6 足利尊氏、反乱軍鎮圧のため、関東へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利直義(あしかがただよし)と、彼に従うメンバーたちは、鎌倉を脱出し、一路、京都へ向かった。

東海道を西へ行く、彼らの行く手に立ちはだかる第一の難関は、駿河国(するがこく:静岡県中部)の入江庄(いりえしょう:静岡県・清水市)である。

足利直義軍メンバーA (内心)北条(ほうじょう)に与(くみ)するヤツラが、

足利直義軍メンバーB (内心)入江庄で、

足利直義軍メンバー全員 (内心)おれたちの行く手を遮るかも・・・。

そこで直義は、入江庄一帯に勢力を張っている地頭の入江春倫(いりえはるとも)のもとに使者を遣わし、援助を要請した。

直義からの使者を迎えた入江家では、さっそく一族が会議を始めた。

入江家の人C 最近の世間の情勢を見れば見るほど、「北条家の復活近し」ってな風に、思えてきちゃうんだよなぁ。

入江家の人D 同感だよ。おれたち入江家も、北条サイドに参加しといた方が、いいと思うなぁ。さっさと、足利直義を討ち取っちまってさぁ、北条時行殿のもとに、馳せ参じようじゃん!

入江家の人E 殿、どう思われますか?

入江春倫 うーん・・・。

入江家一同 早くご決断を!

入江春倫 まぁまぁ、待て待て、おれにも少し、考えさせろい!

入江家メンバー一同 ・・・。

入江春倫 ・・・。

入江春倫 この先ぃ、天下がいってぇどちらに転がって行くんか、なんつうこたぁ、おいらたちのような凡人には、到底分かりっこねぇって事よ・・・ただなぁ、人間、義理ってぇもんが、あるじゃん。

入江家メンバー一同 ・・・

入江春倫 考えて見りゃぁよぉ、この入江庄、もとはと言やぁ、北条家の直轄領だったろ? それをだなぁ、朝廷からわが入江家に、下さったんだぜぃ。それ以来、ここ2、3年っつうもん、わが入江家は、朝廷のお世話になりっぱなしじゃんかよぉ。そういう頂いた御恩に対しては、ここはやっぱ、義理を通して行かねぇとなぁ・・・朝廷の弱みにつけこんで、不義の振る舞いをするってなぁこたぁ、おれには、できねぇよ。

入江家メンバー一同 ・・・

入江春倫 と、いうことでだな、さっそく足利殿を、こちらへお迎えするとしようじゃねぇかい!

入江家のこの対応に、直義は大喜び。

入江家の人々を自軍に編入した後、足利直義軍は、矢作宿(やはぎじゅく:愛知県・岡崎市)へ到着、そこに陣を構えて、馬の足を休めた。

直義は、そこから早馬を走らせて、関東の情勢を京都へ伝えた。

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直義からの急報を受けて、朝廷ではさっそく会議を開き、「急ぎ、足利高氏を将として軍を編成、北条時行・討伐に向かわせるべし」ということになった。

その決定を伝えるために、勅使が、足利邸へ向かった。

勅使 ・・・という次第ですわ。足利殿、急ぎ、ご出馬を!

足利高氏 いやいや、ちょっと待って下さい・・・私の方でもね・・・朝廷に、少しだけお願いしたい事があるのですが・・・。

勅使 ・・・いったい、どないな事ですかいな?

足利高氏 ・・・思いおこせば・・・あれは、去る元弘年間の、動乱の初めの頃でしたよね・・・この高氏が、陛下のお召しに応じて、朝廷の旗の下に馳せ参じたのは・・・それがきっかけとなって、国中の武士たちがこぞって、朝廷側陣営に参加してきました・・・そして、北条家に対して、一気に、勝負をつけることが出来ましたよね?

勅使 ・・・。

足利高氏 現在の天皇中心の政治体制の確立、その第一の功労者は・・・。

勅使 ・・・。

足利高氏 その第一の功労者は、私、この高氏であると言っても、決して、過言ではありませんよね?

勅使 ・・・。

足利高氏 話は変わりますが・・・征夷大将軍(せいたいしょうぐん)ですがねぇ・・・。

勅使 ・・・

足利高氏 あの征夷大将軍の位には、昔から、源氏あるいは平氏の者が、任命されるのが、慣習となっておりますよねぇ?・・・源平両家から将軍位に就任した者の数は、もう数え切れないほど・・・。

勅使 ・・・(冷汗)。

足利高氏 いやね・・・この高氏にも、征夷大将軍の任命をお願いできないものでしょうか、なんて事・・・最近、考えてるんですが・・・。(注1)

勅使 ・・・(冷汗、冷汗)。

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(訳者注1)足利家は源義家(みなもとのよしいえ)の子孫で、源氏である。「私は、征夷大将軍に任命されても、決しておかしくはない家の出身なんですよ」と、高氏は言いたいのであろう。
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足利高氏 これは、朝廷の為にもなる・・・そして、わが足利家の為にもなる・・・ことですよね?・・・どうか、お願い致します。

勅使 ・・・(ハァー)(嘆息)。

足利高氏 あ、そうそう、もう一つお願いが・・・。

勅使 !!

足利高氏 反乱軍を鎮圧して、関東地方をきちんと統治していくためには・・・私の麾下(きか)にある者らに対して、功績を上げた時には、きっちり褒美(ほうび)を与えて取らせる、ということが、何よりも重要になってくるんですよねぇ。

勅使 ・・・。

足利高氏 その褒賞の付与の決定の時にですよ、各自の功績の有無を、いちいち関東から京都まで報告して、陛下のご裁決を仰いでから、などというような、のんびりした事を、やってはおれませんよねぇ・・・そのようなことでは、時間がかかり過ぎてしまいますから・・・せっかく忠義の戦に励んでくれた者らの、やる気もアップしませんでしょう?

勅使 ・・・。

足利高氏 ということで・・・関東8か国に関する一切の裁決を、朝廷から私に、委任して頂きたいのです。

勅使 !!!

足利高氏 いやいや、永続的に、ということではないんです、ここ暫くの間の委任、ということですよ。暫定的、暫定的な・・・。

勅使 ・・・。

足利高氏 ようは・・・私が自分の判断でもってダイレクトに、武士たちに恩賞付与ができるようにね、陛下からお許し頂きたい、ということです。

勅使 ・・・。

足利高氏 征夷大将軍任命と、暫定的な関東地方の裁決の委託、この両方を認めて頂けるのであれば、私、夜を日に継いで関東へ下り、朝敵を退治してみせましょう。

勅使 ・・・。

足利高氏 もしも、この両か条、朝廷からどうしても、お許し頂けない、ということであれば・・・北条討伐の件は、どうか、他の人間にお申しつけ下さい。

勅使 あいわかった。一応持ち帰り、陛下に申し上げてみましょう。

高氏が提示したこの二つの条件、これこそはまさに、今後の天下が治まるか乱れるかを左右するような、実に重大な事柄であった。陛下もよくよく思案されるべきであったのに、

後醍醐天皇 なんやてぇ? 征夷大将軍任命と、関東地方の暫定的統治委任?

勅使 はい・・・。

後醍醐天皇 うーん・・・ま、ええやろ! ただし、征夷大将軍の任命は、関東地方が落ち着いてから後に、ということに、しとこか。関東地方の統治委任の方は、別に問題ないやろな。よし、そないな風に勅書に書いて、高氏のとこへ、はよ送れ!

書記 ハハッ。

その上、もったいなくも、陛下のお名前の一文字が高氏に与えられ、「高氏」あらため、「尊氏(たかうじ)」ということになった。(注2)

あぁ、先が思いやられる・・・。

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(訳者注2)後醍醐天皇の名前は、「尊治」であった。
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このようにして、尊氏は首尾よく、関東8か国統治委託の要求を朝廷に承諾させ、征夷大将軍任命も今回の功績次第、という約束を、天皇からとりつけた。

尊氏はただちに、関東へ向かった。

吉良満義(きらみつよし)に先発軍を率いて先行させ、尊氏の軍は、それから5日の旅程の間隔を保ちながら、後に続いた。京都を出発した時は、わずか500余騎であったが、近江、美濃、尾張、三河、遠江と進んでいくうちに、それぞれの在地勢力が順次加わり、駿河に着いた時には、3万余騎になっていた。

直義の軍も、矢作宿から引き返して尊氏軍に合流し、総勢5万余、軍勢は、鎌倉へ向かった。

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足利軍東下の情報をキャッチした北条時行は、さっそく対応策を練った。

北条時行 足利軍は相当な兵力みたいだな・・・鎌倉にこもって、じっと待ってたんじゃ、敵側に機先を制されてしまって、形成不利になってしまう! 「先んじる時は人を制するに利あり」って言うから。

そこで、時行は鎌倉にそのまま留まり、名越式部大輔(なごやしきぶのたいふ)を大将として3万余騎の軍を編成、東海・東山両道を進軍させよう、ということになった。

名越軍が鎌倉を出発する予定の8月3日の夜、にわかに暴風が襲ってきて、鎌倉中の家々を吹き倒しはじめた。

名越軍の一部メンバーらは、鎌倉大仏殿の中に避難し、身を縮めて暴風の通過を待っていた。ところが、強風によって大仏殿の棟と梁がこっぱ微塵にへし折られ、大仏殿は倒壊、その中にいた軍兵500余が一人残らず圧死、という事態になってしまった。

名越軍メンバーF (ささやき声で)よりにもよって、さぁいよいよこれから出陣って時に、こんな天災に逢っちまうとは・・・いったい、どうなってんだぁ?

名越軍メンバーG (ささやき声で)どうも今回のこの戦、ヤベェよって事なのかなぁ。

名越軍メンバーH そんな事、今さら、ウダウダ言ってても、しょうがねぇだろ! やるっきゃぁ、ねぇんだよぉ!

改めて日程を定め直し、名越式部大輔率いる軍は、鎌倉を進発、夜を日に継いで道を急いだ。8月7日、名越軍の先鋒は、遠江国の佐夜の中山(さよのなかやま:静岡県・掛川市)を超えた。

この情報をキャッチした足利尊氏は、いわく、

足利尊氏 [六韜(りくとう)14変化]の中に、「敵、長途を経て来たらば、急やかに撃つべし」とあるよ。これは、かの太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)が、周の武王に教授したという兵法なんだ。

同月8日午前6時、足利軍は名越軍に襲いかかり、両軍は終日戦闘を展開した。

ここで負けては、後がない! 名越軍は、全軍心を一つにし、30余回にわたり、足利軍と激突、軍勢を入れ替え入れ替え、戦い続けた。しかしついに、名越軍中に心変わりする者らが現れ、彼らは後衛の方から退きはじめた。かくして、名越軍は次第に力衰え、橋本(はしもと:静岡県・湖西市)から退却し、佐夜の中山に防衛ラインを設定しなおした。

足利軍の最前線を担当するは、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)両家の者ら、自らの命を軽んじ、主従の義を重んじて、ひらすら前へ前へと、つき進む。

かたや、名越軍の後陣を守るは、諏訪祝部(すわのはふり)、今ここに恩を身に報ぜんと、決死の防戦を展開。

両軍共に、勇を励まして終日相い戦ったが、名越軍はついに、この防衛ラインをも攻め破られ、箱根(はこね)の水飲峠(みずのみとうげ:静岡県・三島市)へ退却した。

ここ、箱根山一帯は東海道一の難所、足利軍もそうそうたやすくは、攻め懸ってはこれまい・・・ほっと一息つく、名越軍メンバーたち。

ところが、足利軍サイドの赤松貞範(あかまつさだのり)率いる軍が、さしも険しい箱根の山道を、ものともせずに一気に走破、名越軍のまっただ中へ突撃! 縦横無尽に名越陣を攪乱する赤松軍の猛攻の前に、名越軍サイドの防衛ラインはまたも破られ、彼らは、大崩(おおくずれ:神奈川県・足柄下郡・箱根町)まで退却するしかなかった。

その後、清久(きよく)山城守が反攻にうって出て、足利軍に対して一歩も退かずに闘った。しかし、彼もまた足利軍に包囲され、切腹する暇も無かったのであろうか、たちまち生け捕りになってしまい、彼の郎従たちは、全員戦死。

このように、数箇所の会戦にことごとく敗北し、勇みたってはみるものの、もうどうしようもない名越軍。ついに、相模川(さがみがわ)の東岸まで退却し、川を頼みの防衛ラインを敷いた。

都合良く、秋の急雨(しぐれ)が降り、川の水かさは増して、岸を浸しはじめた。

名越式部大輔 これならば大丈夫、足利軍も、こちら岸までは渡河してこれんだろう。

名越軍サイドは少し油断して、負傷者の手当てをして馬を休めながら、ここで敗残の兵を再び結集しようと、考えていた。

ところがその夜、高師泰(こうのもろやす)(注3)が2,000余騎を率いて川の上流の浅瀬を、赤松貞範が中流の浅瀬を、佐々木道誉(ささきどうよ)と長井時晴(ながいときはる)が下流の浅瀬を、渡河した。彼らは、名越軍の背後へ回り込んだ後、東西に分かれて一斉にどっと、トキの声を上げた。

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(訳者注3)高師直の兄弟である。兄か弟かは不明。
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前後を相手に包囲された事を知って、戦意をすっかり失ってしまった名越軍は、一戦もせずにみな、鎌倉を目指して退却しはじめた。腰越(こしごえ:鎌倉市)のあたりで、葦名盛員(あしなもりかず)が反撃に打って出たが、彼もまた、戦死してしまった

このように、遠江の橋本を始めとして、佐夜の中山、江尻(えじり:静岡県・清水市)、高橋(清水市)、箱根山、相模川、片瀬(かたせ:神奈川県・藤沢市)、腰越、十間坂(じつけざか:神奈川県・茅ヶ崎市)等、17か所での戦いにおいて、名越軍2万の軍勢は死傷者続出、今はわずか、300余騎が残るだけになってしまった。

北条家再興の望み潰(つい)えた、諏訪頼重(すわよりしげ)ら、主要メンバー43人は、大御堂(鎌倉市)の中に走り入り、みな一斉に自害して果て、その名を歴史にとどめた。

遺骸を見れば、みな顔の皮をはいであり、誰が誰とも見分けがつかない。北条時行も、きっとこの中に含まれているのだろうなぁと、彼らの最期の有様を聞いた人々はみな、哀れを催した。

三浦時継(みうらときつぐ)一人だけは、いったいどのようにしてそこから遁れたのであろうか、首尾よく、尾張まで逃亡したものの、船から陸に上がった所を、熱田宮司に生け捕りにされて京都へ護送され、六条河原で処刑されてしまった。

北条家再興のこの計画、その機に未だ至らなかったのであろうか、あるいは、天の意志に逆らっていたのであろうか、関東方面以外の北条勢も、良き結果を得ることができなかった。

北陸地方の勢力を集め、3万余騎で京都へ攻め上ろうとした名越時兼(なごやときかね)の軍勢も、越前・加賀国境の大聖寺(だいしょうじ:石川県・加賀市)という所で、敷地(しきじ)、上木(うえき)、山岸(やまぎし)、瓜生(うりう)、深町(ふかまち)らのわずかな軍勢に相対して敗北を喫し、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報じて、終わってしまった。

このようにして、北条時行すでに関東にて滅び、名越時兼が北陸にて討たれた後、北条残党の中に旗頭となれるような人は、一人もいなくなってしまった。彼らは、身を隠し、姿を変じ、こちらの山の奥、あちらの浦の辺へと、引きこもっていくしかなかった。

北条家残党メンバーI あーぁ、結局、こういう結果になっちまったのかぁ・・・残念だなぁ!

北条家残党メンバーJ これじゃもう、北条家の再興なんて、無理よぉ。

北条家残党メンバーK あきらめるしかねぇかぁ・・・。

北条家残党メンバーL 「あの古き良き時代、何とかもう一度」って思ってたんだけどなぁ・・・。

北条家残党メンバーM こうなっちゃぁ、昔の恨みは水に流してだなぁ、くやしいけど、あの、足利尊氏に、靡(なび)いていくしか、ねぇんじゃぁねえのぉ。

このようにして、足利尊氏の影響力は自然に増大し、彼の武運は急速に開けていった。そして、天下は再び、武士たちの手中に・・・。

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