『鏡越しの恋歌』が最高の恋愛小説だって話
ネットには星の数ほど小説が公開されている。面白いものもあるけれど、正直そのクオリティは玉石混交だ。その中で、東海林春山さんの『鏡越しの恋歌』は異質だ。あまりにレベルの高すぎる文章に、フィクションでありながら現実との接地点を見失わない絶妙なバランス感覚に、一瞬で引き込まれた。恋愛に発展するまでのじりじりするような心の機微、すれ違いながらも共に前を向いてしんどい現実と立ち向かう勇気、世の中に消費されない美しさを模索しながら人に影響を与えていく強さ、その全てがユーモアと圧倒的な表現力で包み込まれている。
当時、更新されるのが待ち遠しくて、何度も読み返した。完結した後、この作品の素晴らしさを伝えるべく文章にしたいと思ったけれど、私はこのスケールの大きな作品を語るに足る語彙や表現を持ち合わせていないことにがっくりとしてしまって、できずじまいになった。
その後、東海林春山さんは短編をいくつかと長編を1つ(『微熱の糸が灼きついてほどけないので』)公開されたが、その後1年以上活動しておらず、Xのアカウントも削除してしまった。
ただ、確かなのは、『鏡越しの恋歌』がいつまで経っても色褪せない最高の小説であり、もっと多くの人に読まれるべきだということだ。ネット小説に縁のない人にも届いてほしいから、noteにその素晴らしさを書き連ねようと思う。なお、以下私のnoteはネタバレを含むから、ぜひまずは実際に小説を読んでほしい。一方で、私のnoteを読んでからこの小説を読んでも、その素晴らしさは少しも失われないことも断言する。
あらすじ
新人モデルの玲は、ヘアメイクアーティストの瀬戸穂高と出会う。初めはあくまでメイクを施す人だった穂高がマネージャーになることで、二人の関係性が変化していく。いつでも自信を持たせてくれる、行くべき道を照らしてくれる穂高に恋心を抱き始める玲に対して穂高は絶妙な距離感を保つが、とうとう二人は思いが通じ合い、恋人同士になる。
破竹の勢いで芸能界を駆け上がる玲を穂高は献身的にサポートするものの、仕事とプライベートのバランスをとるのが難しくなる。玲を守ろうとする意識が空回りするあまり、穂高はある決断をするが…
交わる視線・交わらない視線
「美しい人」を中心に据え、メイクアップアーティストという職業を描いたこの小説では、「視線」というモチーフがそこかしこに現れる。
そもそもこの小説は、穂高の玲に向ける視線が描かれる場面から始まる。
穂高が玲に対して向ける視線はいくつもの種類で描きわけられている。一人の人間として、美しい人に自然と吸い寄せられる視線。職業人として、メイクを施すべき素材である顔を吟味する視線。恋人として、愛しいものを眺める視線。玲が穂高を見つめる視線もまた様々だ。恋焦がれて熱を持っていたり、挑戦的だったり。
交わされる視線はメインの二人の間だけではない。玲がライバル視するモデル・未唯に対して、玲や穂高は視線を投げかけるもするっと交わされてしまう。かと思うと、未唯がじっと見つめてくることもある。言葉なくとも、視線が彼女の人となりを表している。
言葉が通じなくても、視線が伝えてくることもある。玲と穂高は撮影のためスペインを訪れて、現地の写真家アンドレと知り合う。アンドレは二人が睦まじくしている様を偶然見かけて、その関係性を察する。翌日の撮影で、アンドレは穂高(アンドレは「ホッター」と呼ぶ)にクリエイターとしての技量を試すような視線を向ける。
あらゆる関係性の中で交わされる数々の視線が網目のように張り巡らされている。「人を見る」ということを徹底的に追いかけて描いていることに、この作品のまず一つ目の凄みがある。
「美しさ」という魔法/呪い
この物語が生まれるきっかけになったのが、メイクルームで穂高が玲に「綺麗です」と言葉をかける場面だ。
「綺麗です」というのは、玲に魔法をかける言葉であると同時に、「綺麗だ」という事実を世界に対して宣言することでもある。では、「綺麗」って、「美しさ」って、結局なんなんだろうか、ということにこの小説は真っ向から向き合う。ともすればルッキズムに陥るか、「みんな違ってみんないい」というようなふわふわした理想論に着地しがちなテーマを、絶妙な匙加減で運んでいく。
まず、生まれながらにして美しい人は、他人を圧倒する力を持つ、と穂高は言う。
穂高はそういう圧倒的な美を無条件に称揚する無垢さを持ちながら、ヘアメイクアーティストとして自ら「美」を生み出す表現者でもある。生来の「美」とある種人工的な「美」。一見対立しそうな二つが反発せずに溶け合っているのは、そこにある意図が共通しているからだ。つまり、その人が持つ魅力を最大限に引き出して、本人も周囲の人間も明るくさせる。未唯はそれを穂高の「稀有な才能」だと評する。美しさという魔法にかけられて生まれ落ちたような玲と同じように、穂高もまた美しさを操る魔法使いだ。
それだけに、美の権化たる玲に対しても容赦ない。スイーツの食べ過ぎでニキビ面をこしらえた玲に対して、こう諭す。
怠惰な生活による体の乱れを放置して、うわべだけ綺麗に見せようとする繕う。それはきっと美しくない。「美しさ」というのは、内側から溢れ出した意思が形作るような、人の心を揺さぶるような、そういう力強さのことなのだ。
一方で、「美しさ」はその力ゆえに毒、あるいは呪いのようにも働く。
そもそも、穂高が玲のマネージャーとなるきっかけも、その「毒」のせいだった。玲のマネージャーは悪名高い「セクハラ野郎」で、その過剰なスキンシップに玲は萎縮していた。新人であるがゆえに強く出られず思い詰めていた玲を、ひょいと外へ連れ出したのが穂高だった。魑魅魍魎のはびこる芸能界で、美しさのせいで玲が消費されてしまうような事態にはしまいと、穂高は新たなマネージャーとして彼女をサポートすることになる。
ケアする・ケアされる
芸能界で「天下をとる」という目標を掲げた玲を、穂高はマネージャーとして献身的に支える。玲が何者かに尾けられていた時は家に連れ帰って暖かいシチューを食べさせる。玲が難しい役柄に悩んでいる時は、そこに没入しすぎず幅を持たせるような演技ができるようアドバイスして気持ちを軽くする。玲の両親の結婚記念日には、裏で根回しして実家まで送り届ける。穂高はマネージャーとして新人なのに「ケアする」ことが体に染み付いている。もちろん穂高も玲の気遣いにケアされているし、かつての「戦友」ヤマダァや、(いつもはちゃらんぽらんだけどやるときはやる)社長に背中を押されることもある。けれども、根本的に、穂高はケアする人なのだ。
穂高のケアのもと、玲はあっと言う間に自立し始める。その象徴的な場面が、セクハラ注文を繰り返す「T氏」に玲が毅然と自分の言葉で返答する、ある撮影での一幕だ。
玲がこの「居心地の悪さ」を自分だけの問題で終わらせず、「女性たちの、これからの女性たちのために、みんなで作品を作ろうってきちんと提案」してくれたことに穂高は心打たれる。玲が穂高を守ろうとしてくれることにも感激する。
自分の脚で前へ上へ進み始めた玲を穂高は必死にサポートするが、次第にバランスが取れなくなってくる。玲のケアを最優先するあまり、自分の生活がおざなりになっていく。
そもそも、この小説では玲の来歴は説明されているのに対して、穂高の過去が見えてこない。玲は千葉県で温かな家庭のもとすくすくと育ち、大学進学ののち、就活を目の前にして半ば逃げるように芸能界に足を踏み入れた。人に愛されてきた、ケアされてきた人特有の伸びやかさが魅力だが、独り立ちに二の足を踏んでいるところがある。穂高は、文化祭で他人にメイクを施す楽しさを覚えたことで専門学校に進学したと説明するが、地元や家族に関して何も語らない。もしかしたら家族との関係は良好かもしれないが、少なくとも自分の抱えている悩みや問題を打ち明けられる相手が(かつての恋人を除いて)いるようには見えない。
結果的に、穂高は関係が明るみに出ることを恐れ、玲の将来を案じて別れを切り出す。玲に自らの心身を預けることを諦めて、マネージャーとして、年長者として玲を守るためケア労働に徹する決断を下す。
ネット小説では、わりかし無垢に、ケアする人とケアされる人の関係が描かれることが多いと思う。男主人公を献身的に支えてくれるヒロイン像はポピュラーだし、逆に生活力皆無な女性アイドルを世話する家事男子もしばしば描かれる。しかし、この小説はそうした固定化された関係性の危うさをあぶりだす。そして、それは現実世界のカップルにとっても切実な問題だと思う。
行って帰ってくる物語
「行って帰ってくる」というのは、ホメロスの叙事詩から『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(玲と穂高も自宅で鑑賞していた)といったスペクタクル超大作に至るまで、数々の物語に使われてきた構造だ。この小説もその構造を含んでいる。
ウラジミール・プロップというソ連の昔話研究者によれば、物語の構造は31の機能で説明できるという。そのうち、「行って帰ってくる」に関わる機能として次のようなものがる。
11 主人公が家を後にする
12 主人公が(贈与者によって)試され、訊ねられ・攻撃されたりする。そのことによって、主人公が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。
13 主人公が贈与者となるはずの者の働きかけに反応する。
14 呪具(あるいは助手)が主人公の手に入る。
20 主人公が帰路につく。
この小説の中で、この構造はまさしく撮影でスペインを訪れる場面に該当する。スペインに旅立ち(11)、現地の写真家アンドレに、玲の横に立つ人間としての資質を問われた穂高は(12)、見事にヘアメイクアーティストとしての矜持を見せつけ(13)、アンドレに写真をプレゼントされ(14)、日本に帰る(15)。こうした定番の構造を取り入れて作品に緩急を生み出す技量もさることながら、「呪具」たる写真を物語の最後で効かせるのがさらにこの作品の魅力を引き上げている(ちなみに、長編2作目『微熱の糸が灼きついてほどけないので』では、プロップの17番目の機能「標付け」が働いている)。
ロマンチックに、コンフルエントに
この小説はファンタジーではなく、現実の日本社会に即したフィクションだ。だから同性カップルであるという事実が重くのしかかる。正確にいえば、「同性カップルに対して世間が向ける嫌悪や好奇の目の存在ゆえに、その関係性を公言できないということ」が二人を引き裂こうとする。
玲が日の当たる道を歩いていき、いつかは異性の伴侶を見つけることを、穂高は心のどこかで願ってしまっている。そして、遠くない将来、玲のキャリアにとって同性のパートナーである自分の存在が重荷になりかねないと懸念している。それが積み重なって別れを切り出す。しかし、ここで生きてくるのが、玲の部屋に飾られていた「写真」である。
穂高はマネージャーを辞め、玲の隣に並び立つに値する一流のヘアメイクアーティストを目指す決意をする。
穂高は年長者の、ケア者としての立場から玲の行末を案じて別れる決断を下していたが、ようやく対等な二人で未来を歩む道を選ぶ。「依存しあうカップル」でもなく、「自立/自律する個人」が離れ離れになるでもなく、前を向く二人がケアしケアされながら歩んでゆく、そこにこの小説が持つ力強さがある。
揺らぎ
玲と穂高、二人の描かれ方に「揺らぎ」があるのもこの小説の魅力の一つだ。玲は圧倒的な美しさを誇示するような身のこなしをするかと思えば、犬のように穂高に甘える「百瀬彗」にもなる。穂高は、玲の顔を、描くべきキャンバスとして真剣に見つめるかと思えば、「百瀬彗」の身も心も絆す年上の恋人にもなる。人は一貫性がなくて、いつでも揺らぎがある。
二人の関係性も、モデルとヘアメイクアーティスト、芸能人とその仲良しマネージャー、人目を避けて逢瀬を重ねる恋人、共に未来を見据えるパートナー、などと様々なグラデーションで描かれる。その揺らぎの中で、二人が完全にお互いを理解しきれないながらもお互いを思い合う様子が象徴的に表されるのが、「鏡越し」という言葉だ。
撮影前のメイクルームで、穂高は絶えず玲と鏡を見比べながらメイクを施すだろう。何のフィルターも通さない素の眼差しで見る玲と、完璧なライトアップと3面の鏡が写し出す玲。その絶え間ない往復の中で玲の美しさを最大限に引き出していき、最後にはやはり鏡越しの玲を確認して、彼女を撮影へと送りだすのだ。
ここに、ある種の価値観の転倒がある。ありのままの素顔を肉眼で見つめることでこそ、その人の本来の価値や魅力がわかるという、「アイドルとファン」が出会う物語の王道的イデオロギーが一旦留保される。むしろ、肉感的な魅力と、鏡という人工物を挟んで伝わる輝きという揺らぎの中で、穂高は玲の真後ろに立って同じ鏡を見つめる。一番近い場所にいながら、いま・ここにある人間としての「百瀬彗」本人ではなく、プロのモデルとして美しさと力強さを数多くの他人に届ける「玲」の鏡像に向き合い、「綺麗です」と声をかける。それは、世の人々を魅了し圧倒する芸能人「玲」への賛辞でもあるし、恋人である「百瀬彗」の耳に届ける恋歌でもある。
最も近い場所にいる恋人ですら、自分との距離は絶えず揺らいでいて、捉えようとしてもするりと抜け出してしまうようなところがある。それを嘆いて押し込めようとしたりせず、愛情と敬意をもって受け止める。『鏡越しの恋歌』というタイトルは、そういう揺らぎの中にあるリアリティや魅力を物語っている、と思う。
現実を生きる
この小説の舞台は現実の日本社会だから、玲と穂高の直面する困難は現実と直結する。芸能界にのさばる有害な男性たち、無邪気な同性愛嫌悪やタブー視される同性パートナーの存在。そして何より、日本の法律では同性カップルが結婚できないという事実。しんどい現実を前にしても、二人はそれを打ち破り、世界を変えていく決意をする。
二人が再び恋人同士になり、穂高がマネージャーを辞めた後、玲は「ひな壇状になった会場で数人ずつがチームとなって、クイズやゲームの成績を競う」バラエティ番組に「これから始まるテレビドラマの主要キャストの一人として参加」する。そこで、司会者から「同性同士のキス」について話を振られた玲は次のように言う。
当初は目標も野望もなく、モラトリアムの延長として芸能界に入った玲は、今や自分の言葉で世界を変えようとする芯の強い人になり、穂高の目も未来を見据え始める。
ヤマダァもまた自らの作品で世の中を変えていく手助けをする。
2024年の日本において、同性愛は透明化された存在として扱われるか、エンタメとして消費されるかのどちらかだ。婚姻はおろかカップルとして公言することすら憚られる空気がある。その現状を変えられるか否かは私たちにかかっている。私たちができるのは、同性愛を安易にエンタメとして消費しないこと、当事者の声を聞くこと、支えること。玲と穂高の二人がスペインで感じた、二人を自然と受け入れてくれる感覚を、日本でも感じることができる日々を実現させるために。いつか、「ひな壇状になった会場で数人ずつがチームとなって、クイズやゲームの成績を競う」バラエティ番組の司会者が、MCを務めるべつの番組で、どぎまぎも焦りもせずに、スペインの空の下で笑い合う二人を見てくれるといいな、と思う。
さいごに
しょうもない自分語りです。私は昔から人よりも海外に対する、正確に言えば外国語に対する憧れを強く持っていました。幸運にも日本で何不自由ない暮らしをさせてもらっているにもかかわらず、流暢に英語を操る帰国子女に羨望の眼差しを向けつづけ、フランス語の抱える膨大な文化的蓄積におののき、韓国のミュージシャンの伝える言葉の機微を感じ取れないことにフラストレーションを抱えていました。ここ数年は膨大な時間を英語・フランス語の学習に捧げることとなり、その間何度も「なぜ自分の母語は日本語なんだ。英語を成長の過程で身につけていれば今こんな苦労はしなくて済んだのに」という思いに何度もとらわれることとなりました。
しかしながら、私がもし日本語文化の中で生まれ育たなければ、『鏡越しの恋歌』に出会うこともありませんでした。その一点の理由だけでも、私が日本語を母語として生まれ育った意味があったと思っています。
東海林春山さん、あなたはこのnoteを読んでいないでしょう。だからこれは私の独り言です。最高の小説に出会わせてくれてありがとうございます。「戻ってきてください」とは言いません。けれど、あなたは書く人です。あなたは言葉の魔法を持って生まれた人だと、私は思います。
参考文献
小川公代,2021,『ケアの倫理とエンパワメント』講談社.
亀井秀雄・蓼沼正美,2015,『超入門!現代文学理論講座』筑摩書房.
北村紗衣,2015,「ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション〜『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ネタバレあり)」,Commentarius Saevus,2015年6月25日,(2024年6月6日取得,https://saebou.hatenablog.com/entry/20150625/p1).
千葉雅也,2022,『現代思想入門』講談社.