現代版・徒然草【83】(第130段・処世術)
人と競うことなく、ただ学問だけに専念する人は、それなりに教養のある人間になれるようだ。
では、原文を読んでみよう。
①物に争はず、己れを枉(ま)げて人に従ひ、我が身を後(のち)にして、人を先にするには及(し)かず。
②万の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらんためなり。
③己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。
④されば、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり。
⑤我負けて人を喜ばしめんと思はば、更に遊びの興なかるべし。
⑥人に本意なく思はせて我が心を慰さまん事、徳に背けり。
⑦睦(した)しき中に戯(たわ)ぶるゝも、人に計り欺きて、己れが智のまさりたる事を興とす。
⑧これまた、礼にあらず。
⑨されば、始め興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類い多し。
⑩これみな、争ひを好む失(しつ)なり。
⑪人にまさらん事を思はば、たゞ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。
⑫道を学ぶとならば、善に伐(ほこ)らず、輩に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。
⑬大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、たゞ、学問の力なり。
以上である。
まず、②から④までをまとめると、人と勝負することを好むのは、勝って自分がうれしいのと、人より力が上であることに喜びを感じるからだという。
では、最初の①の文は、どういった意味だろうか。
そうした自分の(勝ちたいという)気持ちを抑えて、(同様に勝ちにこだわろうとする)相手を勝たせるほうが良いに越したことはないと言っているのである。
ただ、⑤から⑨までを読むと分かるように、ただ負けてあげるというのは、徳に背いている。真剣勝負を挑まれているのに失礼である。
逆に、自分が能力がないように見せかけて、最後に勝って喜ぶのも非礼だし、後々まで恨まれることになる。
⑩の文では、こうしたトラブルは、競争にはつきものだと言っている。
だから、人より優れたいと思うならば、⑪⑫のように、ただ学問に専念して知識を増やし、その豊富な知識があるという自分の長所におごり高ぶらず、知識量を競わなければよいのである。
最後の⑬では、立派な職も辞して、名誉も捨てるのは、学問の力だと言っている。
つまり、知識量を試験で競うような出世競争などせずに、ただ自分の興味のおもむくままに学問に励めば、何の禍根も残さなくて済むということなのである。
実は、これは私自身の生き方そのものである。
有能を評価され、将来を期待されて責任あるポストを与えられてもしんどいだけである。
とかくメンタル面での不安を抱えている人は、兼好法師の言うような生き方が適していると思うのだ。