現代版・徒然草【44】(第233段・非の打ち所)
非の打ち所がない人間というのは、本当に良くできたもので、自然な振る舞いができていて、変に格好もつけていない。
今も昔も、そういう人は変わらずいるものなのだろう。
兼好法師も、第233段で触れている。
では、原文を読んでみよう。
①万(よろづ)の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。
②男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊(こと)に、若く、かたちよき人の、言(こと)うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるゝものなり。
③万の咎は、馴れたるさまに上手(じょうず)めき、所得(ところえ)たる気色(けしき)して、人をないがしろにするにあり。
以上である。
①と③の文の冒頭にある「万の咎」とは、いわゆる人間の欠点である。
誰しも欠点というものは当たり前のようにあるのだが、それを指摘されたり非難されたりするのを恐れている人が、いつの時代にもいるものだ。
兼好法師は、①の文で、もしそういった欠点を見せたくないというのなら、何事にも真心を込めて対応し、どんな人にも分け隔てなく丁寧に接し、発する言葉も最低限度に控えておくのが良いと言っている。
これは、今で言うなら、接客の基本であると言えよう。
②の文では、そういった人(=自然な振る舞いができる人)は、男であれ女であれ、年寄りでも若い人でも誰でも好感を持たれるのだが、特に、若くて容姿端麗で、言葉遣いも丁寧な人ほど、(その人に接したら)その振る舞いが忘れられないほど惹き込まれるものだと言っている。
最後の③の文では、(実際はそれほどでもないのに)馴れたようなそぶりで得意げに振る舞い、(実際は理解できていないのに)物分かりの良さを見せて人を軽蔑するような態度は、どこかで欠点が露見すると言っている。
自分ができないことや分からないことを謙虚に受け入れて、自然に振る舞っているだけで、案外、物事はうまくいくものなのである。