【続編】歴史をたどるー小国の宿命(24)

室町幕府が事実上の滅亡となっても、足利義昭は、1597年まで長生きしていたし、将軍職も1588年までは返上しなかった。

それはなぜかというと、信長に京都から追放されても、まだ全国各地の有力守護からは支持されていたからである。

つまり、将軍としての権威は落ちてはいなかった。だからこそ、各地の戦国大名に要請して上洛してもらえれば、まだまだ勝機はあると考えていたのである。

頼みの武田信玄には病死されてしまったが、まだ上杉謙信は生きていた。また、西日本には、若き20才の武将である毛利輝元(もうり・てるもと)が、安芸国(今の広島県西部)を守っていた。

この毛利輝元は、のちに関ヶ原の戦いで、西軍の総大将となり、家康に敗れはしたが、江戸時代には長州藩の藩祖となった。

実は、輝元は、織田信長や足利義昭とつながりがあり、二人が敵対したときは、仲介役も何度か務めた。

しかし、最終的には、義昭の要請に応じることに決め、信長と自身との関係を断つことにした。

そして、1576年、信長がいるために京都に戻れない義昭は、輝元と同じ広島県に属する鞆ノ浦へ、生活拠点を移したのである。鞆ノ浦は、今では知る人ぞ知る観光地であり、広島県福山市(当時は備後国)に位置する。

義昭はこの地から指揮を執り、亡き信玄の子どもである武田勝頼と上杉謙信に、信長の追討を要請した。毛利輝元も、義昭の京都帰還の実現に向けて、協力したのである。

そうこうしているうちに、1577年、信長のもとで活躍していた秀吉が、輝元のいる広島県に迫ってきた。そして、今の兵庫県と岡山県の県境付近にある上月(こうづき)城を落城させた。

その上月城に、出雲国(今の島根県東部)の戦国大名だった尼子(あまご)氏の残党が入ったのだが、輝元は翌1578年に大軍を率いて包囲し、尼子氏を自害に追い込んだ。

そして、この上月城の戦いの勝利によって、毛利輝元の領地は拡大し、足利義昭からは副将軍の地位を与えられ、信長に対抗しうる最大勢力となったのである。

だが、この年、武田信玄とともに有力な武将だった上杉謙信が49才で病死し、この世を去った。

そして、いよいよ、誰もが予想しなかった本能寺の変が、4年後に起こるのである。







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