古典100選(98)後松日記

昨日の『竹むきが記』から500年後に書かれた江戸時代の有識者による『後松日記』を今日は紹介しよう。

久留米藩に仕え、藩の江戸屋敷に住んでいた幕末の有識者である松岡行義(ゆきよし)が書いた日記である。

今日紹介する部分は、花見がてら祐天寺にお参りに行ったときの日記なので、当時の時代背景に関する知識は不要である。

ただ、東京の土地勘がないと分かりにくいので、簡単に説明すると、今の時代なら東京メトロ日比谷線の広尾駅から中目黒駅まで電車で5分、そこから歩いて徒歩15分ほどのところにある祐天寺にお参りに行ったということである。

では、原文を読んでみよう。

①弥生の五日、祐天寺に詣でぬ。
②今日も空いとうららかに晴れて、山の端(は)ことに白雲のかからぬはなく、一重も八重も色香をあらそふころなれば、いたづらに年古りぬる身も、今日はもの思ひ忘れぬべき春なりけり。
③古川野辺を行きて、広尾野に出づる橋あり。
④この橋のもとに、山桜のいと大きやかなるが、まことに盛りに咲き匂へり。
⑤水車に水堰き入れたるが、あまりて白う落ちくる響きに、もろくも散りかかるけしき、吉野川も思ひやられて、言はん方なし。

梓弓    春野の風も    吹かなくに
落ちくる滝や    花誘ふらん

散る花の    名残りとどめず    行く水に
しがらみ掛けて    しばしだに見ん

⑥この向かひの家主にやあらん、さすがに端居して碁打ちたり。
⑦花の方を見やりだにせず、碁に心入れたるなるべし。
⑧にくき心地すれど、昔も花を賭物(のりもの)にて碁打ち給へる姫君もあれば、さにやあらん。
⑨蔵人の少将にはあらねど、さる御けはひを垣間見したらば、花よりもげにまさりぬべきを、色黒き賤(しず)の男なれば、かひなき心地す。
⑩なにとかや言ひ落として行き過ぎぬべけれど、おのれもその山賤(やまがつ)となにばかりかこよなかるべき。
⑪されば、 

咲く花の    木のもと占めて    住む人の
散るを惜しまぬ    ことやあるべき

⑫例の柄短き筆取り出でて、懐紙に書いつけて、花のもとの小松に結ひつけ、ところどころの花の蔭に立ち休みうち詠(なが)めつつ行く。
⑬つづら折りのぼりて、信濃路の姥捨山ならで、をぢ住み山の花の中の芝生の上に莚(むしろ)敷かせて乾飯(かれいい)取り出だす。
⑭南の方はるかに見わたさるる所なり。
⑮富士の高嶺も例は見ゆれど、霞み籠めたり。
⑯この山の下の千町田(ちまちだ)に立ちおくれたる雁の居たるは、花に名残りを惜しめるなるべし。
⑰麦の青やかなる中に、菜の花の黄に咲きたるも、目慣れぬ錦と見わたさる。
⑱とかくして祐天寺に詣でぬ。
⑲この堂の前なる桜もまことに盛りなり。

亡き人よ    いかが思はん    咲き匂ふ
花見がてらの    春の山踏み

⑳かしこき心地すれば、とくまかでにき。

以上である。

弥生の五日とあるが、江戸時代は旧暦だったので、今より1ヶ月ずれていると思って読むと良い。

③の文のとおり、広尾野に出る橋があったと書いているが、久留米藩の江戸屋敷は、今の東京都港区の三田あたりにあった。

そこから広尾に出て、今の恵比寿駅近辺を通って中目黒まで歩いて行ったものと考えられる。

さて、江戸時代の文章は読みやすいが、現代風の日記文に脳内変換できただろうか。

気が早いかもしれないが、来年の花見の季節に祐天寺に出かけてみるのも良さそうだ。

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