明日から仕事始め
羽田空港の事故の影響で、明日からの仕事を1日ずらさざるを得ない人もいるだろう。
一方では、正月返上で連日出勤した石川県などの自治体職員もいる。
岸田総理も含めて、通常なら正月休みでゆっくりできていたはずができなかった人が少なからずいる。
そういった人たちがいる中で、私は、ふだんどおり正月休みを過ごすことができた。
人によっては、「自分だけが幸せになってはいけない」など罪悪感を感じる場合もあれば、素直に喜べないところもあるだろう。
でも、そんなことを気にしていては、今度自分が逆の立場になったときにしんどいと思うのである。
私は、これまでにも周りの人から「阪神大震災と東日本大震災で、震度7を2回も!?」とさんざん言われたが、むしろそういう経験をした分、今は自分の身に災難が降りかかってこないのだと思うようにしている。
結局、人生はトントンなのであり、山あり谷ありでプラマイゼロなのである。
ただ、私の場合、周りの人が思っている以上に、あまり悲惨な経験はしていない。
阪神大震災や東日本大震災で家が倒壊したわけでもないし、家族をはじめ親しい友人を亡くしたことも、奇跡的になかった。
沿岸部に住んでいたわけでもないので、津波にも遭遇しなかった。
それと、私自身、海の近くに住むことは好きではなく、潮の香りとかが私は苦手である。
かといって、山もそんなに好きではない。だから、土砂崩れのリスクがあるような場所にも住んでいないのである。
さらには、海産物も好きではなく、カニとか牡蠣とか、イクラとかアワビとかサザエもほとんど食べない。
いずれ北陸の復興支援のためにも観光には行こうと思っているが、申し訳ないが、海産物の鍋料理とかは食べることに気が進まないのだ。
個人の嗜好で、住む場所が結果的に安全なところに絞られて、食べ物も絞られてくるから、例えば牡蠣で食あたりになることもない。
こうして自分自身の置かれている状況や、この三が日のいろんな人の置かれている状況を改めて見つめ直してみると、世の中って本当にうまくできているのだなとつくづく感じるのだ。
私とは違って、海が好きな人は、どんなにリスクがあっても、毎年、海水浴やサーフィンなどを楽しむだろうし、山が好きな人も、「そこに山があるから登るのだ」なんて言って登るわけである。スキーやスノボが好きな人も、山の近くに住むほうが便利だろう。
さて、生かされている自分に感謝の気持ちを持って、明日からまた仕事を頑張ろうと思う。
何のために生きるのか。
私たちの命は、常に誰かの犠牲の上に存在しているものであり、それは絶対に粗末にできない、かけがえのないものだからである。
天寿(=天から授けられた命)をまっとうするとは、無駄にせずに生きろということなのである。