古典100選(58)五代帝王物語

今日の記事を読むときは、2022年9月27日の「歴史をたどるー小国の宿命(72)」(=マガジンに収録している)も併せて読んでいただけると、理解しやすいだろう。

『五代帝王物語』は、あまり知られていない歴史物語ではあるが、実は、後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇の五代連続の天皇の治世の出来事が記されている。

特に、1224年の後堀河天皇の即位から、1242年の後嵯峨天皇の即位までは、鎌倉幕府では第3代執権の北条泰時が実権を握っていた。

第2代執権は、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇を倒した北条義時である。

では、原文を読んでみよう。

①さて関東へ早馬立てて馳せ下りたれば、泰時は折節酒宴して遊びけるに、かかる御事と聞きて、ものは言はずつい立ちて、障子はたと立てて内へ入りて、「こはいかがせむずる。泰時、運すでに極まりたり。このことを計らひ申さずして、京都の御沙汰ならば、散々のこと出で来ぬべし。計らひ申さむとせば、小量の身あるべきことにもあらず。進退極まりたり」とて、三日三夜、寝食を忘れて案じけるが、「何ともあれ、土御門院の御末をこそ」とは心中に思ひけれども、「所詮神明(しんめい)の御計らひに任すべし」とて、若宮社へ参りて籤(くじ)を取りたりけるに、土御門院の宮と取りたれば、「さればこそ。愚意の案ずるところ相違なし」と思ひて、やがて城介義景(じょうのすけよしかげ)を使にて、そのよしを申しけるほどに、何の岩屋とかやより義景馳せ帰りければ、「またいかなる勝事(しょうじ)の出で来たるやらむ」とて、泰時騒ぎけるに、義景申しけるは、「もしすでに京都の御計らひにて、順徳院の宮つかせ給ひたらば、いかがあるべき」と申しけるを、泰時返す返す感じて、「このことを申し落としたりける。我殿(わどの)を上(のぼ)するは、かやうのことのためなり。いみじく問ひたり。なんでふ子細あるまじ。もしさる御事あらば、おろし参らすべし」と申し含めけり。 

②京にはまた、「いかにも順徳院の宮にておはしますべし。子細あるまじ」とて、内々御装束の寸法までさだめられ、下用意してぞありける。

③御祖母の修明門院(しゅめいもんいん)の四辻(よつつじ)御所には、「今日関東の使着く」と聞こえければ、人々あまた参り集まりて、ただいま吉事を聞かせむずる気色(けしき)にてあれば、土御門院の御母承明門院(しょうめいもんいん)の御所には人も参らず、かいすみたりけるに、「もしのこともこそあれ」とて、土御門内府ただ一人、なえらかなる直衣にてぞ候はれける。

④ある人の語り侍りしは、土御門院の旧臣のあたりの人々、あまりのおぼつかなさに、「今夜東使着くなり。いかがある」とて、三四人連れて三条河原へ出でて見ければ、初夜のほどに義景河原へうち出でたりけるが、三条京極にして「承明門院の御所へはいづくを参るべきぞ」と申す声のしければ、「夢かや」と思ふほどに、「土御門万里小路なれば、京極を上りにて候ふべし」と言ふ者あり。

⑤「実否を確かに見む」とて、先立ちて参りたり。

⑥東使まさに土御門殿へ参りてみれば、庭には草生ひ茂りて人の踏みたる跡もなし。

⑦門も開かねば扉もゆがみて開かざりけるを、武士どもとかく開きて、義景中門の砌(みぎり)に候ひけるに、内府出で会ひたれば、土御門院の宮、御位につかせおはしますべきよし申し入れてまかり出でぬ。

⑧面々にただ夢の心地してぞありし。

⑨後まで尼にて承明門院に候ひし弁の局(つぼね)と申す女房は、「さればこれはまことかや」とて、あしこここの馬道(めどう)に倒れありきける。

⑩ことわりにおぼえて、をかしく侍りける。

以上である。

五代帝王のうち、2番目の四条天皇が、わずか12才で亡くなったので、次の天皇は誰にしようかということになって、北条泰時が後嵯峨天皇の即位を決断した場面である。

泰時の使いとして、城介義景が京都に赴き、次の天皇は後嵯峨天皇(=土御門上皇の子ども)だと伝えに行ったわけだが、京都では、多くの人が、順徳上皇の子どもが即位するはずだと思っていた。

だが、順徳上皇は、承久の乱が起こる直前の天皇であり、後鳥羽上皇の協力者である。

鎌倉幕府がそんなことを認めるわけがない。

土御門上皇の母だった承明門院に仕えていた女房でさえ、「さればこれはまことかや」と驚くほど、後嵯峨天皇の即位は、京都市中では衝撃だったのである。


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