現代版・徒然草【99】(第157段・人生の教訓)
私たちがなにげなく取った行動が、その後の人生の転機につながることはよくある話である。
ネットサーフィンしていたときに目に留まった求人情報がきっかけで、転職に成功した経験がある人もいるだろう。
では、原文を読んでみよう。
①筆を執れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。
②盃を取れば酒を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。
③心は、必ず、事に触れて来たる。
④仮にも、不善の戯れをなすべからず。
⑤あからさまに聖教(しょうぎょう)の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。
⑥卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。
⑦仮に、今、この文を披(ひろ)げざらましかば、この事を知らんや。
⑧これ則ち、触るゝ所の益なり。
⑨心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自(おのづか)ら修せられ、散乱の心ながらも縄床(じょうしょう)に座せば、覚えずして禅定(ぜんじょう)成るべし。
⑩事理(じり)もとより二つならず。
⑪外相(げそう)もし背かざれば、内証(ないしょう)必ず熟す。
⑫強ひて不信を言ふべからず。
⑬仰ぎてこれを尊むべし。
以上である。
①から④までの文で分かるように、筆を手に取ったら文字を書こうとなるし、楽器を手に取ったら音を出してみたくなる。盃を見ればお酒のことを思うし、サイコロを見れば博打を想像するという。
このように、良くも悪くも心は必ず動くものだから、道を踏み外すようなことだけはするなと兼好法師は言っている。
⑤から⑨の文は、仏教の教えに関するもので、現代の私たちには馴染みが薄いかもしれないが、書店や図書館で手に取る本に例えてみると良いだろう。
難しい経典の文章の一部を目にするだけでも、自然と前後の文に目が留まり、にわかに(=卒爾にして)これまでの自分の誤った認識に気づくことがあるという。だから、もし経典を開かなかったら、一生、自分の誤りに気づかなかったかもしれないし、なにげなく経典に触れたことが自分の利益になったわけである。
同じようなことは、仏前で数珠を手にお経を唱える場合にも当てはまり、やる気が起こらなくても、自然と修行の精神が身につくものだと言っている。(現代の勉強嫌いの子どもにも当てはまるだろう。)
最後の⑩から⑬でまとめているように、「事理」(=外に現れる姿と、内側の真理)は別々のものではなくつながっており、善い行いが道理に反するものでなければ、たとえそれが形式的なものであったとしても、必ず真理を悟るときが来るという。
そんなわけがないと言わずに、まずは実行してみよということである。