【続編】歴史をたどるー小国の宿命(63)

綱吉は、1709年、64才で亡くなった。父親の家光や、実兄である家綱(4代将軍)に比べると、約20年も長生きした。

また、同時代に生きた松尾芭蕉とは2つ年下であったが、芭蕉は1694年にすでに亡くなっていた。

さて、綱吉の後継であるが、兄の家綱同様に、子どもを早くに亡くし、男の子に恵まれなかったので、養子をもらっていた。

その養子が、家光の三男(つまり、綱吉の3番目の兄)の綱重(つなしげ)の息子であった。

綱重の息子の名は、綱吉の養子となって「家宣」(いえのぶ)に改められた。

綱吉がすでに60才を超えていたわけだから、6代将軍に就任した家宣も、48才になっていた。

ただ、家宣は、将軍に就任してまもなく短命で亡くなったので、在職期間はたった3年であった。

1713年には、7代将軍として家継(いえつぐ)が就任した。家継は、家宣の四男だったが、実は、家宣の長男から三男まで相次いで早世したため、家継しか後継者がいなかったのである。

ところが、5才で将軍に就任した家継もまた、父親の家宣同様に、病気で亡くなってしまい、わずか8才でこの世を去った。

だから、現代の私たちには、5代将軍の綱吉の次の将軍といっても、8代将軍の吉宗しか思い浮かばないくらい、印象が薄いのである。

ただ、6代将軍の家宣も、短期間の将軍在職ではあっても、それなりに良いことをやっていた。

世間を苦しめていた生類憐れみの令を一部は残したがすぐに廃止し、また、家宣に取り入ろうと各地の大名や旗本が賄賂まがいの品を贈っても、毅然として受け取らなかったという。

また、不正を厳しく取り締まり、人事を一新し、幕政の立て直しのために、朱子学者の新井白石を登用するなど、すぐれた功績を残した。

そして、新井白石が、家宣の側近として財政改革などの助言を行い、家宣が亡くなって幼い家継が7代将軍に就任した際も引き続き、サポートに入ったのである。

こうして、綱吉から吉宗までの幕政は、新井白石の「正徳の治」(しょうとくのち)によって、うまく引き継がれていった。

国家の存亡は、やはり優秀な人材登用ができるかどうかにかかっているのである。








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