一を聞いて十を知る【巻一⑦】
本シリーズの巻一は、今週31日に完結するので、今日から残り4回は、まとめに入ることになる。
これまでは、『論語』に登場する孔子をはじめ弟子たちのプロフィールを中心に、「一を聞いて十を知る」「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」「慟哭」の言葉が『論語』の中で出てきていることに触れてきた。
また、実際の『論語』の本文も紹介し、その内容は、孔子と子貢の会話や、顔回が早逝したときの孔子の様子だった。
ただ、孔子や弟子たちの会話が『論語』のすべてではない。
当時の施政者にも、孔子の考えは大きな影響を与えたのである。
先週は、孔子のプロフィールについて触れたとき、孔子の生きた時代が紀元前5〜6世紀だったことも確認したのを覚えているだろうか。
そして、日本では縄文時代だったことも触れた。
では、中国は当時はどんな時代だったのか、説明できるだろうか。
私たちが『論語』を読んだときに、難しい箇所や分かりにくい部分があるとしたら、弟子の人名や、当時の中国の時代背景を知らないことが一因としてある。
そんな理解度では、『論語』について堂々と語ることができない。
孔子がどんな時代に生きていて、日々の生活の中でこういった経験をしていたから、弟子たちとの会話の中で、双方からこんな名言が生まれたのだというところまで解説できれば素晴らしい。
もちろん、そんなにパーフェクトに語れることを目指す必要はない。
ただ、本シリーズのねらいは、「一を聞いて十を知る」だったはずである。
シリーズの完成度としては物足りないので、今週は、まとめとしてそこを補完していくのである。
今日は、第七篇の「述而篇」にある5番目の章に書かれていることを紹介しよう。
日本語に訳せば、たった一文である。
子曰、「甚矣吾衰也。久矣、吾不復夢見周公。」
子曰く、甚(はなはだ)しいかな、吾が衰へたるや。久し、吾(われ)復(ま)た夢に周公(しゅうこう)を見ずと。
以上である。
孔子が、自分の体がすっかり衰えたのをひどいものだと自虐的に語っているわけだが、その後に続けて、周公の夢を見なくなって久しいと言っている。
周公とは、孔子の憧れの存在だった「周公旦」(しゅうこうたん)のことであり、紀元前11世紀前半に存在した周王朝の政治家である。
礼学(儀式・儀礼)の基礎を作った人物として孔子は尊敬していたのだが、孔子より500年前に生きていたとされる人物である。
つまり、私たちからみれば、約3000年前にあたるのだが、ここまでくると、時代感覚が分からなくなってくるだろう。
孔子の生きた時代や、それ以前の中国史を知ることに意味があるのかと思うかもしれないが、少なくとも私たちの先祖が中国から伝わった学問に触れていたことは事実であり、現代における日中関係を考える上でも必要なことだと捉えたほうがよい。