古典100選(88)松浦宮物語
第83回で紹介した『無名草子』には、次のような一節が書かれてある。
また、定家少将の作りたるとてあまた侍るめるは、ましてただ気色ばかりにて、むげにまことなきものどもに侍るなるべし。『松浦の宮』とかやこそ、ひとへに『万葉集』の風情にて、『うつほ』など見る心地して、愚かなる心も及ばぬさまに侍るめれ。
上記の文章に出てくる『松浦の宮』こそ、今日紹介する『松浦宮(まつらのみや)物語』であるが、『無名草子』には藤原定家が作者であると言っているものの、研究者によって断定されているわけではない。
もし藤原定家が本当に書いたのであれば、『松浦宮物語』は1190年頃の作品なので、定家が20代のときになる。
では、原文を読んでみよう。物語の冒頭の文章である。
①昔、藤原の宮の御時、正三位大納言にて中衛大将かけ給へる、橘冬明と聞こゆる、明日香の皇女の御腹に、ただ一人持給へる男君、容(かたち)人に優れ、心魂世に類(たぐい)なく生ひ出で給ふを、父君はさらにも聞こえず、時の人いみじき世の光と愛で奉る。
②七歳にて文作り、様々の道に暗きことなし。
③御門聞こし召して、「これ、只人にはあらざるべし」と興ぜさせ給ふ。
④御前に召して、試みの題を賜ふに、たどるところなくめでたき文作り、すべて生ひ出づるままに、管弦を習ひても、師にはさし進み深き手どもを弾けば、はてはては人にも問はず、多くは心もてなむ悟りける。
⑤十二歳にて、御前にて冠(こうぶり)せさせて、内舎人(うどねり)になさせ給ふ。
⑥明け暮れこの人を玩(もてあそ)ばせ給ふに、いたらぬ事なく賢ければ、司冠(つかさこうぶり)もほどなく賜はりて、十六と云ふ年、式部少輔・右小弁・中衛少将をかけて、従上の五位になりぬ。
⑦父君、身に余る官爵を見給ふに付けても、一つ子にしあれば、由々しうのみ思さる。
⑧さし出で給ふ度に、この子の故(ゆえ)にのみ面目を施し給へば、まして斜(なの)めに思されけむやは。
⑨容(かたち)・身の才(ざえ)足ら減ることこそあらめ、世の常の若き人のごと、色めき婀娜(あだ)なることもなし。
⑩ただ宮仕へを努め、学問をして明かし暮らせば、御門をはじめ奉りて、忠実(まめ)の大人大人しき者と思したるに、若き心の内一つなむ、人遣りならず苦しかりける。
⑪神奈備(かんなび)の皇女と聞こえて、后腹にて、限りなく清らに物し給ふをなむ、稚くより、いかでと思ふ心深かりける。
⑫いづれも若き内に、世付きたる心もなければ、晴るけ遣る方なくて過ぎつるを、九月、菊の宴果てて夕べに、人々罷で散るに、「なほさりぬべき隙もや」と、宮に参りて気色を取るに、宮も御前のかれ御覧ずとて、階(はし)近うおはしますほどなりけり。
⑬睦まじく参り馴れ給ふ君なれば、ふと入り給はず。
⑭御琵琶をわざとならず掻き鳴らしつつおはします気配著(しる)きに、いとど心騒ぎして、階(はし)の間に居ぬれば、二の間に居たる女王の君、「菊の宴果て侍りぬや。思ひかけぬほどをいかで」と云ふ。
⑮ただかくなむ、
おほみやの 庭のしらぎく 秋をへて
うつろふ心 人しらむかも
⑯えならぬ一枝を持たりければ、あたれる間の簾の下にさし入るるを、めざましう見給ふ。
⑰神奈備の皇女、
秋をへて うつろひぬとも あだ人の
そでかけめやも みやのしらぎく
以上である。
最後の和歌のやりとりがそれぞれどんな意味を持っているのか、なかなか理解できない人もいると思うが、貴族の恋愛物語は、本文も含めてやはり読解が難しいのが分かるだろう。