古典100選(93)難後拾遺
今日は、『難後拾遺』(なんごしゅうい)という源経信(つねのぶ)の歌論書の紹介である。
先週紹介した『去来抄』の中で、俳句の批評について書かれた部分があったが、それと同様に、和歌についても批評書なるものがあった。
その前に、『難後拾遺』とは何か説明すると、後拾遺和歌集に選ばれた和歌について、論難(=欠点等を指摘して非難すること)したものである。
後拾遺和歌集というのは、白河天皇の命で源通俊(みちとし)が中心となって編纂したものだが、この源通俊が撰者として選ばれるほど和歌の実力があったわけではなかった。
つまり、なんでこんな低レベルの歌が選ばれるの?という疑問を、当時の歌壇の重鎮だった源経信がぶつけたわけで、それが『難後拾遺』である。
実際に、後拾遺和歌集は、こうした指摘を受けて、一旦完成したものの改訂が加えられた。
では、原文を読んでみよう。
①後拾遺とて、この頃、世にかき騒ぐ集ありとて、人の持たるを暇(いとま)の閑(ひま)に人に読ませて聞き給ふれば、いとをかしうおぼゆる歌もあり、また、いかがあらんとおぼゆるもあれば、これを書き出だして、それはさぞと言ふ人あらば、げにとも思はむとてなり。
②この中にやんごとなき歌詠みの詠めると書き付けられたる歌の心得がたきもあれば、それをも恐ろしながら書き付けたるなり。
③これは心の及ばぬにもあらん。
④歌詠み人をも、歌の言葉をも、書き違へたるもやあらん。
⑤おほかた聞きて、腹立ちそしる人もありなん。
⑥ゆめゆめ。
⑦正月二日、逢坂の関にてうぐひすの鳴くを聞きて
詠み人知らず
ふるさとへ 行く人あらば 言伝(ことづ)てむ
今日うぐひすの 初音(はつね)聞きつと
⑧逢坂の関にてうぐひすの初音を聞きて、いとをかしければ、詠めるか。
⑨さらば、「逢坂」といふ言あるべし。
⑩さらずはさせることなし。
⑪兼盛が、「今日白河の関は越えぬ」と詠めるは、陸奥(みちのく)国は、いとはるかなる所の白河の関まで行きて、「都へ告げやらん」と詠まれたればこそをかしけれ、これはかれをまねびたるが劣りたれば、見苦し。
⑫なほ告げまほしうは、供の人一人して告げにおこせん、いとやすきことにはあらずや。
⑬正月七日の日、子(ね)の日に当たりたりけるに雪の降り侍りけるに
伊勢大輔(いせのたいふ)
人は皆 子の日の松を 引きに行く
今日の若菜は 雪や積むらん
⑭この歌は、「若菜は雪や積むらん」といへるも、をかしきやうなれども、「引きに行く」とあるこそ、すべらかにおぼえね。
⑮おほよそ幼(おさな)げなるなり。
⑯心ざし侍りける女のことざまになりての後、石山に籠もりて侍りけるに
前大納言(さきのだいなごん)経輔(つねすけ)
恋しさは 忘れやはする なかなかに
心騒がす 志賀の浦波
⑰歌はなだらかなるやうなれど、末に「志賀の浦波」とあるに、本(もと)にそれにかかりたる言や詠まるべからん。
⑱石山にて詠まれければ、近きほどにて志賀と詠まれけりとおぼゆれど、歌にも見えねば、いかがはあらん。
以上である。
いかがだろうか。
詠み人知らずの歌と、かの有名な伊勢大輔の歌、前大納言の藤原経輔の歌の3つが取り上げられている。
たしかに、伊勢大輔の「引きに行く」という表現は、現代の私たちの感覚からしても違和感がある。
「今日白河の関を越えた」を真似て、「今日ウグイスの初音を聞いた」というのは、型にはめただけで芸がないというわけだ。