現代版・徒然草【8】(第151段・芸)
今日は、年をとっても、芸は身につけるべきか?というテーマである。
人生100年時代の現代でも、同じことが言えるのかどうかは、人それぞれだろう。
では、原文をみてみよう。
或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末(ゆくすえ)もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交じりたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万(よろず)のしわざは止(や)めて、暇(いとま)あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携さはりて生涯を暮すは、下愚(かぐ)の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。
まず、最初の2文は、だいたい読み取れるだろう。「50才になるまで上手くならなかった芸は捨てるべきだ。さらに頑張って習おうにも、余生が短い。」ということである。
当時は、70才まで生きるほうが珍しかった。
次の2文にいくと、「老人のことを、人は笑うことはできない。みんなに交じっても、不調和であるし、見苦しい。」と言っている。
今でもそうだろう。
さらに次の2文にいこう。
「おおかた、すべてのことをやめて、時間をもてあましているほうが、周りから見た目も良いし、理想的だ。世俗にまみれて、残りの人生を終えるのは、三流の人だ。」と言っている。
この言い方は、元気な年寄りにはカチンとくるかもしれないが、田舎暮らしをしたことがある人は、そこに住んでいるお年寄りの方の過ごし方が、まさに兼好法師の理想とするスタイルだとお分かりだろう。
では、最後の2文である。
「知りたいと思ったことを人に聞いてもいいが、だいたいのことが分かったら、それ以上は深入りせずにそこでやめるべきだ。最初から何も知らずにいるほうが、一番良いのである。」
皆さんは、死ぬまで学び続けたいだろうか。