歴史をたどるー小国の宿命(88)
正中の変で無罪とされた後醍醐天皇は、二度目の倒幕計画を立てた。
7年後の1331年、この年が元弘元年だったことから、「元弘の変」が起こった。
この元弘の変でもまた、内密にしていた倒幕計画が、関係者の密告によって幕府にバレてしまったのである。
今度という今度は、さすがの後醍醐天皇も、隠岐への島流しとなった。また、正中の変で佐渡に流された腹心の日野資朝は、佐渡で処刑され、亡くなった。
後醍醐天皇とともに無罪だった日野俊基は、幕府のある鎌倉で処刑され、日野資朝同様に亡くなった。
しかし、これで終わったわけではない。
後醍醐天皇の倒幕運動に呼応していた一人の名将がいた。
彼こそが、楠木正成(くすのきまさしげ)である。大阪府の河内出身の豪族であったが、彼が率いる軍に、幕府軍は苦戦を強いられたのである。
後醍醐天皇の島流しによって、天皇方と幕府方の戦いは終わったかに見えたのだが、その裏には、楠木正成のしたたかな戦い方があった。
彼は、幕府軍との戦いの中で、自害したかのように見せかけて、実は姿をくらましていたのである。
そして、頃合いを見計らって、再び挙兵したのである。
1332年、楠木正成自身が河内に築いた千早城(ちはやじょう)の周辺で、幕府軍と楠木軍はぶつかり合った。
有名な軍記物語である『太平記』に描かれている楠木軍の戦法は独特であり、なぜに幕府軍が苦戦したのかがよく分かる。
そして、隠岐に流されていた後醍醐天皇は、この戦いに幕府が気を取られている隙に、本州に舞い戻ったのである。