歴史をたどるー小国の宿命(68)
鎌倉幕府と後鳥羽上皇の関係は、どうだったのだろうか。
頼朝が初代の征夷大将軍になったのは、朝廷から任ぜられたからである。では、誰が任命したのかというと、当時は天皇だった後鳥羽上皇である。
後白河法皇がすでに亡くなっていたので、後鳥羽天皇が朝廷の最高権力者だった。
その流れからすれば、2代将軍の頼家も、3代将軍の実朝も、朝廷が任命することになる。
頼家は、1195年に、頼朝と政子に連れられて上洛し、頼朝の後継者として披露されている。
ところが、その8年後に、頼家が重病を患い危篤状態になると、鎌倉幕府は、朝廷に「頼家は死んで、千幡(=実朝)が後を継いだ」という虚偽の報告をする。
千幡(せんまん)とは、実朝の幼名であるが、「実朝」と命名したのは、後鳥羽上皇である。
後鳥羽上皇は、虚偽の報告をされたことには気づいていなかったと思われる。
それどころか、元服したばかりの12才の実朝に、好意的であった。
この時点では、幕府と上皇との間に、波風は立っていなかった。
実朝も、後鳥羽上皇に好感を持たれながら、暗殺されるまで15年間も、将軍職に就いていたのである。