歴史をたどるー小国の宿命(49)
百人一首には、崇徳上皇が詠んだ和歌も選ばれている。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末(すゑ)に あはむとぞ思ふ
【意味】
(川の)瀬の流れがはやいために、岩に堰き止められた水が(勢い余って)分かれてまた元の流れに戻るように、別れた二人であっても、ゆくゆくはまた逢いたいものだ。
「われ」は、水の分かれと人の別れを掛けている。そして、「あはむ(逢わん)」ということばの中には、「あは」(泡)ということばも掛けられている。
崇徳上皇のこの和歌は、保元の乱とは関係ないといわれているが、異母弟であったとしても、昔の子ども時代のように、また弟と一緒になりたいという願いも、川の流れに託していたかもしれない。
敵同士で戦うことになった保元の乱では、結果的に、崇徳上皇は敗れてしまう。
勝った弟の後白河天皇は、第77代天皇として引き続き、天皇の地位にとどまった。
崇徳上皇は、不本意ながら、保元の乱の首謀者として扱われ、島流しの刑を受け、今の香川県(讃岐)に流されたのである。
しかし、戦いは、まだ終わっていなかった。今度は、1159年に平治の乱が起こる。
後白河天皇の味方になっていた平清盛が、その後、どう動いていったのか。
ここでようやく、清盛が表舞台に登場するのである。