古典100選(76)和歌威徳物語
今日も、昨日の記事に続き、百人一首がらみの江戸時代の作品を紹介しよう。
そして、今日は『光る君へ』にも登場した和泉式部とその娘の小式部内侍のお話である。
小式部内侍の詠んだ「大江山〜」の和歌は、有名な百人一首の一つであり、多くの人がご存じだろう。
1689年、徳川綱吉の時代に書かれた『和歌威徳(いとく)物語』に、それに関する出来事が紹介されている。
では、原文を読んでみよう。
①「小式部が歌のよきは母の和泉式部に詠ませて主(ぬし)になる」と、御所中に披露ありけり。
②内々くちをしと思ふところに、ある時、また内裏に歌合ありけるに、小式部も人数(にんじゅ)に指されてけり。
③すでにその日近くなりける頃、中納言定頼(さだより)卿、かの局(つぼね)に来りて、「御会の日も近くなり侍りぬ。歌はいかがせさせ給ふ。丹後より使ひは来ずや。さぞ心もとなく思すらむ」などたはぶれて、立たれける時、小式部引きとどめて詠めり。
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみも見ず 天の橋立
と、当座にことわりければ、中納言伏目になりて、言ふべき言葉もなくて立たれけり。
④これよりしてこそ、小式部、母が力を借らざれども自身と詠めるなりけりと、世の疑ひを晴らしけれ。
⑤そもそもこの小式部は、幼きより和歌の道、世人(よひと)に優れたり。
⑥年十一の時、母もろともに院の御供にて住吉へ参りけり。
⑦御法施(ほうせ)果てて後、ここかしこ浦のけしき叡覧(えいらん)ありて興ぜさせ給ひけるに、千鳥(ちどり)鷗(かもめ)など波に揺られたりして居、おもしろく思し召して、「あの浮き鳥、射て参らせよ」と仰せごとありければ、北面(ほくめん)の人々、弓矢を持ち、波の上におりたちて、これをねらひけるけしき、まことに折からおもしろく叡覧ありて、「このけしきを歌に詠むべし」と、和泉式部に宣旨(せんじ)ありけり。
⑧式部承りて、「みづからが歌、めづらしからず。ここに姫一人召し具し候ふ。かれに詠ませて御覧あるべし」と申しければ、「さらば」とて宣旨あり。
⑨姫、顔うち赤めながら、母の方へ向かひて、「ちはやぶる」と申しければ、母、「それは」とて叱りけり。
⑩君、あやしく思し召して、「いかでさやうには諌(いさ)むるやらむ」と仰せられければ、「神の御ことにこそ、ちはやぶるとは申すべけれ。これはあらぬことにて候ふものを」と申しければ、「悪しくとも、いとけなき者のことなり。苦しからじ。詠ませて聞け」と仰せごとありければ、「さらば詠むべし」と母に許されて、
ちはやぶる 神の斎垣(いがき)に あらねども波の上にも 鳥居立ちけり
⑪君をはじめ、御供の公卿殿上人、大きに感じ給ひけり。
⑫御感(ぎょかん)のあまりに色の御衣(みけし)を下され、小式部内侍と召されけり。
⑬母の心思ひやるべし。
⑭それより内裏に召されて、ときめきけり。
以上である。
冒頭にもあるとおり、当初は、小式部内侍が歌が上手いのは、母親の和泉式部が詠んだ歌を自分のものとして詠んでいるからだと噂されていた。
それで、藤原定頼(=藤原公任の長男)がからかってみたのだが、小式部内侍はその場で「大江山〜」の歌を詠んでみせて、自分の実力が本物だと証明したのである。
さらには、母親の和泉式部と一緒にいる場でも、「ちはやぶる神の斎垣に〜」と詠んで、殿上人たちを驚かせた。
母親の和泉式部は、鼻高々だったことだろう。
これが、小式部が11才(=今で言えば小学校5年生)のときの出来事だったのだからすごいのだ。