月モカ_180625_0080

la la la 19. 「信じる」は 「信じられる」のこと(By ラム子)

こんにちは。昨日の”セネガル 対 日本” めちゃくちゃいい試合でした。
2点失点したのに2点追いついた、ここに日本の進化を感じましたし、
本田選手のGOAL!!! はなんかもういろいろ胸がいっぱいです。
さて、今のワールドカップの日々ってラララ世界のある意味縮図のようなことがたくさん起きているなぁと思っているので、こっちでは、そういう角度から語りたいと思います。(サッカー、の角度からはあっちの名前でもうすでに熱いエッセイを書いてUpしたところ。笑)
サッカーやオリンピックのような肉体芸術(スポーツ)は、まさに心技体が一つになって展開されるので、わたしがここで毎日小分けにしてお伝えしているようなことが1秒ごとに次々起きて、さらにどんどん変化していきます。

プロローグの前半では軌道の話をよく書きましたが、まさに試合では「流れ」と言う言葉の通り、ほんのちょっとしたことから相手が相手を塗り替え、軌道チェンジをし、流れを変えていきます。わたしは日本の試合の後、ポーランド対コロンビアも観ていたのですが、あの試合は立ち上がりはポーランドがとても良かったのに、10分〜15分くらい経ったあたりから、完全に流れがコロンビアのものになってそのまま試合は終わってしまいました。

さて、今日はここで「信じる」ということについて書いてみたい。
「信じる」は正確には「信じられる」ということだと。
【自分を信じる】というような言葉をよく聞きますが、どうやったらそうなれるのか、これも、当たり前に使われている割に、橋渡しする言葉の少ない概念だなって思います。自分を信じる、うん、わかる。でもどうやって?

スピ的な話、引き寄せ的な話をすると「信じられない」ことを「信じて引き寄せようとしても失敗する」とあります。言葉にすると笑えるくらい当たり前のことなのですが、例えば大きな会社に入ったばかりの新入社員が『来年には社長になる』これ、引き寄せ的にはあまり適してない目標、となります。つまり想念の話でいくと(いや、さすがにそれは無理だろう)という逆のバイアスがかかって、その逆のバイアスがつまり、そうはなれない自分を引き寄せてしまう、ということです。例えば今回のサッカーで『今回、日本優勝する』これは難しいです。
信じられるか、というと信じにくい、からです。
けれど平昌オリンピックの羽生くんの金メダル、あれはネガティヴな人は、怪我が深刻でもう無理だろうと言ったりしましたが、可能性の範疇ではもちろん狙えた。つまり「信じられた」他人からみてもね。

じゃあ他人事じゃなくてじぶんのことはどうでしょう。
”わたしなんか” ”めっそうもない” ”なかなか信じられない”
という言葉を謙虚と捉え ”俺はやってやる” とか ”俺は持ってる”
とか言う人を傲慢だとかナルシストだとか言う人いますね。
それは大きな間違いです。じぶんを「信じられる」ようになるには、信じられるようになるまでの時間と努力と覚悟が必要だからです。
だから、ごめんなさい、ちょっとキツイ言い方になりますが、
誰かのビッグマウスを ”う〜わ〜”みたいに笑ったり、”わたしなんか全然ですよ”みたいなことを言っている人は、わたしからすると「謙虚」な人ではなくて「怠惰」な人であり「努力をしない」人です。
(ごめんなさい、ちょっとキツイね)

最近、何か少し「努力」というものが嘲笑われているような風潮を感じていて、それは何を持って努力と言うのか、なんか「努力」という言葉の持つ意味が少しづつずれているのではないのかなあと思うのだけど、努力に関してはまた別の回に書きますね。

「信じる」という言葉はそういう意味で誤解を生みます。
「信じられる」だったらどうでしょうか。
「信じられる」は、心の問題です。そして根拠がいります。信じられるじぶんになるために、何が足りないでしょう。

わたしが小説をただ一度だけ賞に出して、そしてそれが賞を獲ってデビューした時、わたしは「もしかしたらいけるんじゃないか」と、書き終わった瞬間に思っていました。それはつまり内容とか才能とかのことじゃなかったんです。あの時じぶんは家族と絶縁になるかもという覚悟の中でその小説をかきあげました。集中して書いていた二週間、多分、東京に出てきてこれまでにないくらい集中して覚悟を決めて小説を書き進めた。
きっと賞には「なんとなく」出してみた人もいたでしょう。賞に出すという行為に関してはわたしも「なんとなく」でした。でも、もし、その賞に「覚悟賞」みたいな別枠があって、この小説に命かけてここに来たやつ集まりなさい、と言われたら、たぶんわたしは全応募数の中で1,2を争うなと思っていました。覚悟で言ったら誰にも負けないと思いました。だから信じていました。あれは、何かしらのものだなと。

つまりその「信じられる」要因て、色んなものがあると思うけど、あなたの心に紐付いていたらなんでもいいのです。でも何かしらの語れる根拠が欲しい。「だってこうだもん!」って言えるくらい真剣な何か。
扉を突破するとき、人は何かとてもわかりやすい要素だけに着目しがちです。小説家になりたいなら文がうまくなければならない、女優になりたかったら綺麗じゃないといけない、留学するにはまずお金がないといけない。
そう・・・ではあるんですがそうでもないってことなんです。
コロンビアに勝つにはコロンビアより強くないといけない。そう考えたら日本はコロンビアに勝てません。でも選手たちはじぶんたちを「信じていた」どうしてでしょうか。

じぶん自身を「信じてみたい」でも「信じることができない」不器用さんへ。すっごく簡単な解決作があります。才能とか向き不向き関係なく、誰もができることです。「毎日やること」
これは実はものすごい”ラララ秘策”です。

昔、わたしはスナックで働いていたことがあり、その頃のわたしには人を惹きつける要素が何一つありませんでした。周りの女の子は皆、役者や歌手のセミプロたちで、ぶっ飛んでるとかすっごい美人とかめちゃ歌がうまいとかあって、小さなスナックでしたが才能の塊みたいな店でわたしはくすんでいました。その時ママが「何かお前に語れるものはあるか聞かれたら”毎日居ます”って言え」と言ってくれました。
毎日いるのはそれだけで一つ語れる誇れることなんやから、とママは言いました。こんなのなんの才能でもないと思ったけど「毎日居ます」は結構ウケて「おお、お前は毎日いるんか」となり「あの毎日いるけどなんもできん子」がちょっとお客様からリクエストされて歌って喜ばれていると「褒められとる! あいつちょっと歌うまくなった!」と親のように喜んでくれ、毎日いるから当然知ってるお客さんも増え、3年後に作家デビューした時は、たくさんの常連さんが「ようやったな」とお祝いしてくれたのでありました。

「何もないわたしだけど毎日とにかく頑張ります」

これが本当の謙虚さだと思います。わたしは自信がないとき、よくこのラララ秘策を使います。自信がない時こそ誰もができることを誰よりちゃんとやるのです。このラララ世界を始めた時も、わたしなんかが偉そうに暮らしの知恵なんかをお伝えいいのかな? と思いました。
ジャンルの違うコラムだから不安もありました。
だからこそ毎日必ず更新することにしました。信じられるラム子であるために。毎日更新するのも初めてだったからやれるかな? と思いました。
でも、その1日1日が重なっていくごとに、今わたしは、このマガジンのパワーを、始めた頃より強く、確信的に信じることができています。だからあまりフォロワー数とかスキとかそういう数字で見ていません。
これは必ずきっと何かの扉を開けてくれる。必ずいつか、星は降る。
ローマは1日で成らないけれど、されど継続は力なり。

もし何かを始めてみて、やっぱり続かないってことがあっても、
こんなこともできなんだ、と思って落ち込む必要はありません。
それは続けられないことだったのです。
だったら「わたしにも続けられそう」と思うことをやってみて。
続けられること、それはもう才能です。
続けられることには、才能があります。あなた、それ、向いています!笑

「じぶんを信じる」の前段階に「信じられるわたし」がいる。
「信じられるわたし」が「じぶんを信じる」のです。
大丈夫、信じられる何かは、あなたの中にもうすでに絶対あります。
それを探し出して見よう。

信じられるわたし、がじぶんを信じて、苦しい時も日々を重ねる、
その先に、星が降ります。
きのう、本田選手の左足のところにこぼれてきたボールのように。


ラララ世界の中心はあなたであって、いつどんな瞬間からも、その一瞬先の未来の時系列を変えることができます。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ