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虚無を漂う 〜アダルトチルドレンな日々〜

私には、自殺願望がある。

それは、幼稚園バスを待っていた頃から明確に、ある。
つまり、当時から、家に帰るのが億劫で、尚且つ、幼稚園(学校)に行くのも辛かったのだ。ずっとお腹が痛かった。


…では、なぜ自殺しなかったのか。
それは、ただ「なんとなく、しそびれてしまったから」としか言えない。


一度だけ、本気で実行しようとしたことがある。
その時は、たまたま……本当にたまたま、親が夜中に起きてきて見つかってしまった。

「迷惑。」
蔑むような視線とともにそう言われた。
「その行動が、どれだけ会社に迷惑かけるかわかってるのか。」
言葉少なく冷ややかに言い放って、”社長”は寝室に戻っていった。

(我が家は自営業だったので、近所の評判やイメージがとても大事なのだ)


それ以来、なんとなくずっと生きている。
死ぬにも、行動力や決断力が必要なのだ。

…なんとなく、とはいえ、努力はしてきた。
「あなたも、努力が足りなかったのではないか?」
「暇だから、悩むんだ」

等々の説教を喰らうたび、受験、就職、婚活、………
期待に沿う娘になるべく頑張ってきた。

でも、今、もしあの頃の自分に会えるなら………

「その努力の先には、何もないよ」と教えてあげたい。
全力の努力の末にあなたが出会うのは、虚無だよ、と。


物質的に満たされている現実

実家は、裕福な方だったと思う。
それ故、不満を口にすれば「甘ったれている」と呆れられる。

それ以前に、
「日本という平和な国で、」
「水道水が飲める環境で、」
「”飽食の時代”に生きること」

は、贅沢なことだと突きつけられる。

戦争を生き残った祖父母ともずっと同居していたので、二言目には、「あんたは幸せな時代に生まれた」と言われる。

それでも私は、幸せというものをうまく感じることができなかった。


「汚物を見る目」で娘を見る

我が家には、かつて私の賞状がたくさんあった。
客人は、それを見て、この家の子供は両親に溺愛されているなぁと信じる。

だが、私には、あれは両親が訪問客に対して、
「子育てに成功しています」

と主張しているように見えた。

あの家に「優秀な子供」の存在は必要だけれど、「私」は必要なかった。
私は、親から嫌われていた。

母が私を見る「目」は、ゴミ虫を見る目だ。
「汚物を見る目」だ。

私がゴキブリを見る目とおんなじだ。

なるべく視界に入れたくないけれど、急に飛んできたら怖いから、位置だけは把握しておこう…と、視界の端に入れる。なるべく視界に入らないように視界の隅で見る、あの目。私を直視すると、目が腐るようだ。

父に話しかけると、怒られる。
「お前の話は、くだらないんだよ。
 話を聞いてもらいたかったら、俺が聞きたいと思う話をもってこいよ。
 一番になったとか、賞を取ったとか。
 聞いても価値がない話をするな!」
私自身が、くだらなく価値がない人間であると言われた気になった。


母は、よその子を見るたびに言っていた。
「よその子は、どの子もみんな可愛い。
 どの子にもひとつはキラリと輝く”良いところ”がある。
 うちの子にはそれがない。
 みんな可愛いのに、なんでうちに生まれたのはあんたなんだろう…」
母によれば、産まれた子供が「私」だったのは、神様からの試練なんだって。言葉よりも、その失望の表情と深いため息が私を刺した。

私は幼稚園児の頃から自殺したいと思っていた。
ママに、私のいない人生をプレゼントしたいと思っていた。


***

ある日、飼い犬が私を真っ直ぐに見る目と、正面から目が合った。
私は胸を突かれたような思いがした。

彼は、視野全体に私を入れて、真っ直ぐに私を見ていた。
そこに愛を感じて、心が震えた。

私を大きく視野に取り入れても、彼の目は腐らないらしい。
彼にとって、私は「汚物」ではないらしい。
そこに、愛を感じて涙するほど、私は孤独だった。


寄り添ってほしい時に突き放される

我が家は「ネグレクト」とは程遠かったと思う。むしろ過保護・過干渉で、親はひっきりなしに子供に何かしゃべりかけていた。

明るい家庭。
仲良し家族。

でも、大事なことは、何も言わない。
何も言わずに、大事な物事はしれっと決まっている。
異論は認めない。


そして、大事なことほど、聞いてくれない。


進路など、大事な話の時ほど、
「ママわからないから、先生と相談して」
と、さらっと言って席を立ってしまう。


「いじめられている」
と言っても、”そういう話題は嫌なの”という雰囲気で制圧する。


小学生のときだ。

痴漢に会ったことを母に話しても、
「そういうことは口に出すものではない。」
と、目を合わせずに一蹴されてしまった。


今も同じ。

本当に聞いてほしいことは、雰囲気で制圧される。
真剣な話は、できない。

言えば、途端に、
「そういう話をするなら、帰ってこなくていい!」
とヒステリーが始まることがわかっているからだ。

ニコニコして、馬鹿を演じる。
求められる「私」を演じることに、私も慣れてきた。

気持ち悪い。


お金のはなし

我が家では、家長が「俺が、金を出す」と言ったら、従わねばならない。

家長の最大のプライドを傷つければ、何日何ヶ月もも禍根が残る。

「お金は自分でなんとかするから、好きにさせてほしい」
何度、その言葉を無理矢理飲み込んだか。


我が家の家長は、「女、子供」が働くことを嫌がった。
母がパートしたり、私がバイトを始めたりすると、
「俺の稼ぎに不満があるのか」
「与えてやっているものに、不満があるのか」
と、たいへん機嫌を損ねてしまう。

そのくせ、二言目には、
「誰の金だと思っているのか」
である。

金を出された瞬間、様々な「意志決定権」は「金を出した人」に移る。
(私は、その意思決定権を「売った」覚えはないんだけどな…と思う。)


好きな服や化粧品を、気兼ねなく、自分のお金で買いたい。

やっと経済的に独立を果たしたのに、大量のモノ(食料、衣類、家電)を送ってきたり、お金を振り込んでくる。断ると激昂される。何度も大喧嘩した末、私が負けた。


「もう、やめてほしい」


しかし、親からすると、何かを「与える」のは「親の愛」であり、同時に、
「金を払ったんだから、口を出す権利がある」のも当然なのだ。

今は、とにかく、薄氷を踏むように、親の機嫌を損ねないように、
「もらって」は、「自分の意思」を手放している。


家族との会話は、否定、否定、否定

あの家にいると、強烈な孤独を感じる。

単に一人でいる時とは比べ物にならない、「絶望感」

それは、多分、あの会話のせいだ。


我が家の食卓は、朗らかで、みんなニコニコと談話している。
外から見れば、理想的な家族に見えるだろう。

しかし、話している内容の一例を挙げると、
「あんた(=私)の結婚指輪、ダッサいね〜」
「ほんと、吹けば飛ぶようなダイヤだな〜」
「その安っぽさが、あんたらしくていいんじゃない?」
「お前、上手いこと言うな!あははははは」

と、まぁこんな感じだ。

基本的に、悪口なのだが、本人たちにその自覚はない。
侮辱しているという自覚がない。


ある日などは、帰宅したそばから
「あんた、また太った?
 そんな見た目で電車なんか乗って、よく恥ずかしくないね」

である。「ただいま」「おかえり」の前に、これがくる。


料理を作れば、
「ここがダメ」「ここがダメ」「ここがダメ」
と、食事の席は「ダメ出し会」になってしまう。


私が機嫌を害すると、
「長女が、突然キレた」
「反抗期かしら?」

ということになる。

両親の視点では、
長女は、いつも意味もなく家族団欒の雰囲気を壊すから困っている
、ということになる。


スマホが鳴るから、電話に出てみると、開口一番、
「お前の悪いところは〜」
から始まり、勢いよく喋り倒されたこともある。

何事かと思ったら、
「ふと思ったから、言っておかなきゃと思って」
だそうだ。

カウンセラーに、「家族との会話が辛い」と相談したこともある。
「前後の文脈がわからないとなんとも言えませんが…」
……って、前後の文脈なんかねーよ。


「老後」が見えてきた親は、急に優しさを見せるようになった。
そんな今でも、親の目を見て会話しようとすると、脳が拒否反応を起こす。


母のちょっとした意地悪

母は、私にちょっとした意地悪をする。
鈍臭い私への当てつけだ。

実家に持って帰った手土産を、わざと、ずっと同じ場所に放置する。
そして、半年後の帰省の際に、私がそれを見つける。

こうやって、「無言」のうちに攻撃を仕掛けてくる。

手土産はたいてい、気がつくと、私が背負ってきたリュックに無造作に突っ込まれている。

かといって、買って帰らないと怒られる。

修学旅行のお土産も、クリスマスプレゼントの手袋も、私の鞄の中に無言で突っ込まれていた。

別のプレゼントは、「これ、誰からもらったか忘れたけど、あげる〜」と、プレゼントした本人である私に突き返してきた。

無言で突き返されるのも悲しいが、正面切って「いらない」と言われるのも辛い。


***

今、私はいつもニコニコしている。

時々、資格試験に合格したとか、良い仕事が見つかったとか、昇進したとかそういう話題を土産に携えて実家に帰る。

そして、それらの「オメデタイ話」は、私の実力でなく「単に運が良かった」とか、「たまたま良い人が紹介してくれた」とかを強調することも忘れない。

…両親のプライドを傷つけないように、なおかつ、「全てうまくいっっている」という安心をお届けするためだ。


まるで、虚構を漂うクラゲである。

クラゲは、「死にたい」と思うことはあるのだろうか。


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