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遊戯三昧〜遊ぶように仕事がしたい〜【一】

遊戯三昧ゆげざんまいとは、
仏教のことばで「何ものにもとらわれることなく、自由であること」
“遊戯”は「悟りを開いた修行者が何ものにも囚われず思いのままに振る舞う」こと
“三昧”は「あることに一心になって他のことをかえりみない」こと

働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目にあうこともまた、そのまま遊びなんです。

山田無文師

こどもの悪知恵

これは子供の頃の話なんですが、
私は保育園に通っていた時、
よくある「お遊戯ゆうぎ」と言うものにわずらわしさを感じていました。

大勢の人の中にいるのは疲れるし、不本意な出来事にも遭遇しやすい。
それなら黙々と一人で作業をしてる方が落ち着けて、好きだったんです。
なので、イメージとしての「遊び」に対して
一種の「苦行」という認識を持っていました。

少し大きくなって、社会の仕組みについて耳にする機会も増え
世の中に対する印象を構築できるようになったとき、
私は世の中の有りようについて

「生きるためにはお金がいる」
「お金を得るためには働かないといけない」
「働くことは、嫌なことを我慢することだ」

と、解釈しました。

私にとっての「我慢」は、本当のところ、
「(把握しきれない数の)みんなと仲良くお遊戯」することでした。
でも、周りの「みんな」は友達と遊ぶことが本当にやりたいことで、
ずっとそれをしていられるのが理想の状態らしい。

私自身、
それを「そうだ」と思えないのは、
私に経験が足りないから、
もしくは想像力が足りないからだ
と考えていたもので、

私もその時が来たら、
そう感じるようになるのかと
漠然とした不安を持っていました。

ただ、当時から
「自分がどう感じるか」を無視する
方法を感覚的に知っていたため、

そこで
1つの可能性に気づきました。

仕事、労働と言われる「我慢」を
「遊び」だと受け取って喜べるよう、
自分の感性を矯正なりなんなりすれば

一生、遊んで暮らせるんじゃねえか…

って。


のちに、矯正するまでもなく
「仕事」自体に楽しみを見出すようになりました。

任せられた「仕事」をこなせるよう
創意工夫に没頭することは
ふつうに楽しかったんです。

「できる」こと「与える」ことは“喜び”である


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